第186回 なんで「行かす」「食べさす」なの?

  日本放送協会(NHK)は、ここ数年間についていえば、かなり優れたドキュメンタリーを制作していると思います。大東亜・太平洋戦争の真実に迫ろうとするいくつかの番組には特に感心させられたものです。
  そのNHKが一方で日本語を破壊しつづけています。先頭に立って日本語の劣化を進めています。中でも格別にひどい番組は「みんなでニホンGO!」です。「日本語に正解はない。だから日本語はおもしろい」というサブタイトルからすでにそのことが察せられます。この番組でNHKは「正しい日本語の使い手」としての自己を完全に否定し、そこに居直っているのです。
  いえ、ケイタイ時代を満喫している若者たちがどんな略語や新語を使い始めようと、それをNHKが安易に受け入れようと、そんことには大きな問題はありません。社会に与えるインパクトの大きさによっては、長く生き残る言葉もあるでしょうし、すぐに消えていく言い回しもあるでしょうから。そんなことは、要するに、社会が決めることです。
  問題なのは、NHK自体が日本語の構造や文法をまったく守ろうとしていないことと、昔から使われている言葉が誤用されていることに寛容すぎることです。日本語には「正解」があるのです。NHKが担っている役割の一つはその「正解」=文化をできるだけ守りつづけることなのです。
  「言葉おじさん」と自称している人物がNHKの言葉に関わる番組にしばしば登場します。ところが、この人物自身に大きな問題があります。口癖として、耳障りな「…かな?」を連発するのです。自分が言っていることに自信がない一般の日本人が、聞き手に媚びるために使うようになったと考えられるこの「…かな?」は、NHKがいますぐに放送から駆逐しなければならない数多くの“問題語”の一つです。
  「かな」というのは、つい近年までは、「本当かな」「そうだったかな」などというように疑念や疑問、不確実さを表すためだけに使われてきました。それが本来の使い方なのです。この由緒正しい使い方=日本の文化を守る義務が、視聴=受信料を徴収しているNHKにはあります。ですから、たとえば、ドラマの中に「あんな亡くなり方をしたけども、あの方はあれで幸せだったのかな、と思えば、いくらか気が楽になります」というような、否定と肯定を混在させた、歪んだ台詞があれば、これをNHKは認めてはなりません。「…けれども、あの方はあれで実は幸せだったのだろうな(幸せだったのではないか)、と思えば…」というように改めることができないかを脚本家と話し合うべきです。せめて、後者が本来の正しい日本語だということをNHKは自ら学習しなおすべきです。
  「…かな?」だけではありません。自己主張をますます避けたがるようになっている=自信が持てない日本人が、「…をしたい(と思う)」と言うかわりに「…になればいい(と思う)」という言い方を好むようになっているという傾向は間違っています。これも、NHKは記者やアナウンサーたちに使わせてはなりません。日本人は、特に外国人と語り合うようなときには、堂々と「…をしたい(と思う)」と言うことができるようでなければなりません。そう言えない日本人は国際社会の落伍者になってしまいかねませんから。
  もう一点…。
  NHKの最近の大罪の一つに「…せる」「…させる」を放逐して「…す」「…さす」を常用していることがあります。「…に行かせる」を「…に行かす」、「…を食べさせる」を「…を食べさす」に、といった具合です。「子供に高額のケイタイを持たすのはどうでしょうか?」の「持たす」も同様の例の一つです。
  この「行かす」や「食べさす」といった言い方が抱えている問題は、それを受身形にしようとしてみれば明確になります。「行かす」は「行かされる」なのでしょうが、「食べさす」は「食べさされる」?
  このようなぎこちない、舌を噛みそうになる言い方のどこが「行かせられる」や「食べさせられる」に勝っているのでしょうか?
  こういう、統一的な言い換えを積極的に採用したからには、NHKは「食べさす」「食べさされる」が「食べさせる」「食べさせられる」よりは立派な日本語だと信じているのでしょうね?でも、そう信じる根拠はどこにあるのでしょう?まさか、用語の簡略化だけが目的だとは言わないでしょうね?
  まったく無用で、間違ったの改訂だと思います。
  <「問責決議」考―報復の応酬を超えよう>と題した朝日新聞の社説(2011年1月7日)の中にこんな文がありました。
  <であるならば、審議拒否ではなく、審議を通じて主張をいれさせる。予算案や法案を修正させる。そのようにして持てる力を生かす方が本筋だろう>
  「いれさせる」「修正させる」とあって、日本語本来の上品な一文になっていますよね。これが「主張をいれさす」「法案を修正さす」では、美しい日本語として読めません。何故でしょうか?
  待て、同じ文の中に「持てる力を生かす」と「生かす」の形もあるではないか?ありはしますが、この「生かす」は、「行かせる」「食べさせる」の「…せる」「…させる」が使役・尊敬の助動詞であるのに対して、それ自体が五段活用の動詞です。そして、この動詞「生かす」の受身形と尊敬形こそが「生かされる」なのです。「せっかくのこの提案が有効に生かされる(受身)ことを期待しています」「この研究結果を皆様方が十分に生かされる(尊敬)よう願っております」というふうに。(「…に無理に行かされる」などの「行かされる」と混同しないでください!)
  「泣かす」「笑わす」「狂わす」、「呆れさす」「話さす」「言わさす」…
  これらは、実は、すべて文語です。未然・連用・終止・連体・仮定(已然)・命令形は「す」では「せ・せ・す・する・すれ・せよ」、「さす」では「させ・させ・さす・さする・さすれ・させよ」となっています(現代国語例解辞典 小学館)。口語の「せる」「させる」とは活用もまったく異なっています。
  もう分かりますよね。NHKはすべての使役・尊敬の助動詞を、口語本来の「…せる」「…させる」から文語「…す」「…さす」に戻しているのです。無用に戻して、日本語を混乱させているのです。文語の使役・尊敬の助動詞と口語の動詞を混ぜこぜにして使って、日本語を醜くしているのです。<「主張をいれさす」「法案を修正さす」では、美しい日本語として読めない>というのは、つまりは、そういうことなのです。現代文の中に文語が混じっているからなのです。
  終止形で「…に食べさす」と文語を使いながら、連体形では「食べさする」、已然(仮定)形では「食べさすれ」ではなく、口語の「食べさせる」「食べさせれ」を使う、といったやり方で、NHKは日本語の秩序をぶち壊しているのです。
  論説員、編集者、記者、アナウンサーたちの日本語再教育をNHKはただちに始めなければなりません。日本語を破壊しつづけるのはNHKの仕事ではないのですから。
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  「現代国語例解辞典」はこう説明しています。
  【す】(使役・尊敬の助動詞 古語) 妻(め)の女に預けて養わ竹取物語) 現代語の「せる」にあたる 【さす】(使役。尊敬の助動詞 古語) 月の都の人まうで来ば、捕らへさせん(竹取物語) 現代語の「させる」にあたる
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  2011年1月4日の読売新聞の記事にこういうのがありました。
  <首相は「私も野党議員が長く、政府を厳しく批判してきた。時の政権の政策の矛盾などを示したいと考えたからだが、今振り返ると、政局中心になりすぎて政策的な議論が十分でなかった場面も、党として、あるいは私としてあったかなと思っている」と語った>
  「あったかな」は本来は「そんなことはなかったのではないか」と思うときに使うことばです。ここは「あるいは私としてもあったのではないか(あったかもしれない)と思っている」と言うべきところです。
  日本の首相までが「かな」を愛用するようでは、日本語の劣化は深刻なところにきているといえます。