第321回 「“正直”辛いことでした」でいいの?

  日本語のこんな使い方には感心できません。たとえば「“正直”辛いことでした」あるいは「“原則”買いません」。
  「正直」について、その理由を述べていきます。
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  さて、「“正直”辛いことでした」の「正直」はちょうど「“とても”辛いことでした」の「とても」と同様に使われていますよね。形容詞をじかに修飾する副詞として。
  しかしながら、「新潮国語辞典 現代語・古語」の「正直」には副詞としての説明がありません。
  では、「現代国語例解辞典」(小学館)の方は?こちらでは「正直」を名詞としてだけではなく、副詞としても説明しています。「気持ちや行動が偽りや見せかけでないさまを表わす語」というふうに。
  ただし、この辞典は、副詞としての機能を「正直」に認めてはいますが、そこに挙げられている例文は「一人暮らしは“正直”言って寂しい」と、「正直」は動詞「言って」を修飾するもので、形容詞「寂しい」にはかかっていません。
  ところで、気づきませんか?
  この例文「一人暮らしは“正直”言って寂しい」の「正直」には、本来はあるべきだった「」が欠けていることに?「一人暮らしは正直言って寂しい」とあるべきところを、いまの日本人に普通となりかけている、むやみやたらと助詞を省く用法を(不用意に)受け入れて「“正直”言って」としたのだと思われます。「正直言って」という本来は正しい言い方を曲げてしまって。
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  助詞「」を省く風潮が歌謡曲の世界にも蔓延し始めていることを「苦言熟考」は【第108回 日本のジョシはあまりにも虐げられている!】 2009-01-25 (http://d.hatena.ne.jp/kugen/20090125/1232849380)に書いています。関心がある方は目をお通しください。
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  「現代国語例解辞典」の格助詞「」に関する説明を見てみましょう。
  そこでは格助詞「」の働きとして、1.物事の行われる場所や時を表わす「リーグ戦に優勝する」 2.動作・作用の目標目的・対象を示す「雨が雪に変わる」 3.受身的動作の主体を示す「怒りにふるえる」 4.動作・作用の行われる方法や状態を示す「直角にまじわる」 5.物事の状態の基準をや内容を示す「才能に乏しい」 − という説明があります。ちなみに、「一人暮らしは正直言って寂しい」の「」は、例<4>が説明している「に」に当たっているはずです。
  そこから分かるのは、「リーグ戦」や「雪」「怒り」「直角」「才能」といった名詞についた格助詞「」は、常に動詞を修飾する機能を持つだけで、「辛い」のような形容詞につづくことはない、ということです。
  つまり、「“正直”辛いことでした」という文は、もともとの用法から言えば、正しいものではないのです。
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  思い出してください。「“正直”辛いことでした」というような寸足らずの文を書く者は、昔は、新聞記者や評論家、学者などといった、少なくとも物書きを生業とするような人たちの中には、ほとんどいませんでしたよね。
  では、どんなふうに書いていたか−−。「正直に言わせてもらいますと」「正直に告白させていただきますと」「正直に白状すると」「正直なところ(では)」などなどではありませんでしたか?
  「正直に」のあとには、その文脈の流れ、あるいは、それが使われる状況によって、無数のとは言いませんが、数多くの言い回しがなされていたのです。
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  つまりは、「“正直”辛いことでした」という文が抱える問題は、文法の原則から離れて名詞「正直」が形容詞「辛い」を直接に修飾している、という点だけではないということです。
  「“正直”辛いことでした」では、「正直」につづくことができるはずの、上に挙げた例のような、さまざまな言葉があっさりと“抹殺”されてしまっているのです。
  手を抜いて「“正直”辛いことでした」と書く(言う)ことで、あるいは、そう書く(言う)ことを受け入れることで、日本人は、本来は持っていた、「正直」につづく色とりどりで豊富な言い回しを捨ててしまっているのです。
  そんな色とりどりの言い回しを捨てることで、多くの日本人は、日本語力を弱めているのです。
  日本語力を弱めることで思考能力を劣化させているのです。
  危険なというのが言いすぎならば、そう、もったいないことだとは思いませんか?
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  ちなみに、上に上げたもう一つの例「“原則”買いません」も典型的には「原則としては買いません」と言うところです。もちろん、「原則にこだわれば(やはり)買いません」などと言う場合もありえますよね。
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  「たかが助詞」と言うなかれ。
  そのときどきの流行語とは違い、「“正直”辛いことでした」というような、日本語の文法や構造をないがしろにした文の蔓延には、簡単に看過してはならない重大な問題が潜んでいるのですから。
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  【第265回 問題あり 名詞の安易な副詞化】 2013-01-19 (http://d.hatena.ne.jp/kugen/20130119/1358548257
  【第193回 ジョシをいじめるとこうなる】 2011-03-16 (http://d.hatena.ne.jp/kugen/20110316/1300269856
  【第191回 「ジョシ虐待」 再び】 2011-02-26 (http://d.hatena.ne.jp/kugen/20110226/1298678951
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