再掲載: 番外 「翻訳で遊ぼう」 “はてな?”集 =3=

<021>

  (略)ミラーは自分の机に目を伏せた。「血のつながった人間を使い捨てることは、方法の一つとしていささか挙げにくいのですが」
  「ネッドか」ライアンが補った。(P.205)

  She looked down at her desk. “The natural person for
us to trash I’m almost to mention.”
  “Ned.” Ryan supplied. (PAPERBACK P.106)

  ジェニファーをどう弁護するかをライアンとミラーが論じ合っています。捜査した警官とその捜査方法のずさんさを指摘するのはどうだろうか、あるいは、検屍局を槍玉にあげるか、などと。そんな中で、この殺人事件の被害者で、ライアンの息子であるネッドを悪者に描き上げて、ジェニファーへの同情または情状酌量を勝ち取るという方法もあるとミラーは示唆します。

  <The natural person for us to trash>の<trash>というのは<使い捨てる>ではありません。ここでは<悪く言う><弁護のためにだれかを悪者に仕立て上げる>という意味です。「英和中辞典」(旺文社)には「…をくず物扱いする、…を手当たり次第にこわす」などの意味が挙げられています。

  <natural person>は<血のつながった人間>ではなく<そういう狙いをつけると“自然に思いつく人間”>です。
  この間違いのせいで<方法の一つとしていささか挙げにくいのですが>というかなり無理な訳も生まれています。
  ここの誤訳はこの本の中のワースト5に入るでしょう。

  試訳:(略)「(警官や検屍局のほかに)わたしたちが悪者にしてもいい人物の名がもう少しで口に出そうになっているんですけど…」
  「ネッドだね」。ライアンは自らその名を挙げた。

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<022>

  「頭が良さそうだ。ただ何か肩を怒らせているような感じがつきまとうけどな」(P.206)

  “She seems smart enough. Only I kept getting the
feeling she has some kind of chip on her shoulder.”(PB P.106)

  調査員ローレンスがミラー観をライアンに伝えています。
<chip on one’s shoulder>を辞書(「英和中辞典」旺文社)で引くと<with>が頭について<けんか腰で><忘れられない不満(不平)をもって>とあります。「肩を怒らせている」でもいいのでしょうが、それだと<威張っている>というような意味も混じってきますから…。

  試訳:「頭は十分に良さそうだな。ただ、いつもなんだかけんか腰(やたら他人につっかかる人間)だなって、おれはずっと感じていたけどね」

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<023>

  「予想外にベッカーを怒らしちまったのかな」
  「あなたは、その気でなくてもごみを漁って火をつける類いの弁護人になるしか仕方ないかもしれませんよ」(P.218

  “You may have to become a trash-and-burn litigator
in spite of yourself.” (PB P.112)

  ライアンとミラーは電話で会話中です。「ごみを漁って火をつける類い<trash-and-burn>」が分かりません。ここの<trash>も<021>の場合と同様に<使い捨てる>ではなさそうです。ましてや<ごみを漁る>では…。上の<021>を見直してください。

  試訳:(略)「あなたは、本当はそう人じゃなくっても、手当たりしだいに相手を破壊し焼き尽くす(戦闘的な)法廷弁護人になるしかないかもしれませんね」

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<024>

  「(略)コリノに関するわたしの事務所の資料コピーも持っています。マル秘扱い、読む前に焼却せよ、の類いです」
  「クレイグ?何か新事実は?」(上 P.231)

  “(略)I also have photocopy of my office’s file
on him. Eyes only, burn before reading.”
  “Craig? Anything new?”(PB P.119)

  弁護士ライアンとミラー、調査員クレイグ・ロレンスが裁判官コリノのことを話し合っています。「マル秘扱い、読む前に焼却せよ」は変ですね。
  この<Eyes only>の意味については、正直にいいますと、辞書を見るまでわたしはすっかり誤解していました。
  <for your eyes only> つまり<マル秘>という意味だったんですね(「リーダーズ英和辞典」研究社)。
  でも、<読む前に焼却せよ>というのはどういうことでしょう?<読む価値はない>ということでしょうか?つまり<マル秘扱いにはなっているが、ほとんど価値はない>類の資料だとミラーは言っているわけですかね?
  ライアンがロレンスに「何か新事実は?」と尋ねて、すぐに話の方向を変えていることからはそう察することができるようですが…。

  試訳:「(略)内容は<マル秘だが、読まずに焼いてもよし>といったところですね」

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<025>

  「(略)ロバートスン・ニーランドという男は、結局よくわからん。パーク・アヴェニュウにシイグラム・ビルディングの美観を損なう建物を建てた。それが彼の頂点をなす仕事だ(略)」(P.234)

  “(略)He put up one of those buildings on Park
Avenue that insults the Seagram building. That was his
high point.(略)”(PB P.119)

  被疑者ジェニファーの父親ニーランドについてロレンスが報告しています。「頂点をなす仕事」が他のビルの「美観を損なう」ことだというのは?
  ここの<insult>は<シイグラムのビルを辱める>つまり<かたなしにする><みすぼらしく見せてしまう>というような意味でしょう。

  試訳:「(略)パーク・アヴェニューに建っているビルの一つが彼のものでね、それがあの《シイグラム》のビルをみすぼらしく見せてしまうように立派なんだ。(略)」

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<026>

  そこでは、しなやかな体つきの女たちや筋肉りゅうりゅうの男たちが、ぴっちりした多彩なレオタード姿で、ロビイを絶えず出入りしていた。(P.236)

  A constant stream of sleek women and muscle-pumped
men in skin-tight multicolor costumes flowed through
the lobby. (PB P.121)

  「筋肉りゅうりゅうの男たち」が「レオタード姿で」?なんだか気持ちが悪くなるような光景ですね。この<レオタード>は英文では<costumes>です。<身なり>で十分でしょう。

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<027>

  「(略)郊外に駐車場付きの小さな建物を建ててね、まるでファストフードのレストランだ。医者ボックスと呼ばれてましたよ。(略)」(P.237)

  “(略)They were out in the suburbs, small buildings
with a parking lot, like a fast-food restaurant. They
called them doc-in-a-box.(略)”(PB P.122)

  「医者ボックス」の英語が<Doc-In-A-Box>というふうになっていないのが意外です。これは、全米にたぶん何千軒とあるファストフード・レストラン<JACK-IN-THE-BOX>をもじっていることが明らかだからです。
  この<ジャック・イン・ザ・ボックス>は日本でもかなり知られているかもしれませんが、元になっている小説が出版された国の読者には簡単に分かることで翻訳本の読者には理解がしにくいところは、翻訳者としてはやはり、できるだけ、何らかの形で説明する義務があると思います。
  原文のスタイルを損なわずにどこまで説明するかという難しい問題は残りますが…。

  試訳:「(略) あの(ドライヴイン・レストラン・チェイン)<ジャック・イン・ザ・ボックス>をもじって<ドクター・イン・ア・ボックス>と彼らは呼んでいましたよ(略)」

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<028>

  「カサンドラかと思っていた、あるいはカシオペアかと」
  「忘れたわ。あなたは文学専攻でしょ。(略)」(P.256)

  “I was expecting maybe Cassandra, or Cassiopeia.”
  “I forgot, you’re the lit major. (略)(PB P132)

  調査員クレイグ・ロレンスとキャシアがキャシアの名前の出どころについて話しています。ロレンスが実は、学生時代には文学を専攻していたという話がこの場面のずっと前にありました。キャシアという呼び名が、たとえば、キャサリンではなく<カサンドラカシオペア>ではないかと考えていたというロレンスの文学的センスに触れて、ミラーは以前にしていた話をここで思い出したわけです。
  時制を無視しすぎるというのもこの翻訳者の“特徴”になっていますね。

  「忘れていました。あなたは文学専攻だったんでしたね」(略)

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<029>

  「ネッド殺しの犯人を釣針からはずす方法はないものかと、釣船で遠出して来られたんじゃないでしょうね」(P266)

  “You wouldn’t be on a fishing expedition, looking for ways to get Ned’s murderer off the hook?”(PB P.137)

  ここでの誤訳(珍訳)も“ワースト5”に入るかもしれません。
  殺された息子ネッドの少年時代からの友人ウィリイをライアンは訪ねています。ネッドの生前の抵当融資ビジネスのことを調べているのです。
  ここでは<a fishing expedition>がほとんど言葉どおりに訳されていますが、辞書(「リーダーズ英和辞典」研究社)を見ると<《情報・罪証などを得るための》法的尋問;《広く》探りを入れること>とあります。裁判前の調査に忙しいライアンが「釣船で遠出」などするわけはない、と訳者は考えなかったのですね。
  <off the hook>も辞典には「困難(義務)から解放されて」とあります(旺文社 コンサイス英和辞典」)。訳者はライアンを「釣り船」に乗せてしまったものだから「釣針からはずす」とつないだのでしょうが……。
  たとえば、<窮地から救ってやる>で十分でしょう。

  試訳:「ネッドを殺した誰かを窮地から救い出す道を見つけようというので探りを入れてらっしゃるんじゃないですよね?」

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<030>

  「そうだ。そのとおり。陪審にはそう言えないが、きみには言える。彼女が有罪だとは思っていない」その断固たる口振りは、真実からの距離を告げていた。(P.267)

  “That’s right, I don’t. I can’t say that to a
jury, but I can say it to you. I don’t believe she’s
guilty.” It came out with a ring of conviction that
belied its distance from the truth. (PB P.137)

  ライアンはウィリイと話しています。<その断固たる口振りは、真実からの距離を告げていた>の個所は、懐かしいほど、翻訳調ですね。昔はこういう文体の翻訳があふれていて、わたしたちの頭を悩ませていたはずです。
  < a ring of conviction>が「断固たる口振り」というのはちょっと手抜きではないでしょうか。

  試訳:「(略)」。そう確信していると言葉は高らかに告げていたが、本心はそれとはほど遠いところにあった。

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