第187回 都知事、ぜひ引退を

  日本人がすべて石原慎太郎東京都知事のように物を考え始めたら日本も終わりだ、と前々から感じていました。
  「たちあがれ日本」の共同代表、与謝野薫氏が民主党政府に参画するつもりで離党届を1月13日に出したことについての石原氏のコメントを読んで、この人の頭の粗雑さを改めて知ることになりました。
  時事通信によると石原氏は<「ばかじゃないか。政治家の資質の問題。なぜ沈みかかっている船に乗るのか」と批判した>だけではなく<「彼(の政治生命)はこれで終わりだと思う。そんなに世間は甘いものではない」と指摘した>そうです。
  石原氏が論理の整合性に無頓着であることがここに実によく表れていますね。
  特に分からないのは<沈みかかっている船に乗る>ことが<政治家の資質の問題>だというところです。何が言いたいのでしょう?これで“批判”になっていますか?<資質のいい政治家は順風満帆の船にしか乗らないものだ>ということなのでしょうか?
  “勝ち馬”に乗るというのが石原氏の政治信条だというのなら、それはそれでいいのですが、それは<政治家の資質>の問題ではなく、政治家がその政治的野心をどう展開していくかを示しているだけのことです。
  むしろ、自分の政治上の信条に基づいて<沈みかかっている船に乗る>ような政治家が少なすぎることが今日の日本政治の欠陥なのではないでしょうか?信条の追求実現よりは私利私欲(あるいは再選)を追い求める国会議員が多すぎることが?
  <彼(の政治生命)はこれで終わりだ>という断言の根拠も<そんなに世間は甘いものではない>というだけです。石原氏が言う<世間>とはいったい何のことなのでしょう?国民?有権者
  そもそも、石原氏が世間=国民の意見や反応に熟知した政治家だったことがかつて一度でもありましたか?
  たとえば、そうですね、上野動物園に貸し出すパンダの貸出料を請求した中国に応えて<あんなもの誰がみたいのかね。俺は見たくないね>というようなことを言い放って、子供たちの夢を踏みにじった人物はだれでしたっけ?一億円(と言われた額)を出し惜しみして、子供たちから夢を奪っただけではなく、上野動物園の入場者数=収入を激減させた人物は?これで自分は“世間”のことを熟知しているつもり?後に、結局はパンダを借り受けることになったときには、石原氏はいったいどう感じたのでしょうかね?
  さて、70歳代の半ばになってもまだ<終わり>を見たくない権力亡者の石原氏はともかく、世間の普通の人間はその年齢になると、できることならいい仕事を最後にしたいものだ、と考えるものではありませんか?<彼(の政治生命)はこれで終わりだ>という言い方で石原氏は与謝野氏をやり込めたつもりなのでしょうが、もし与謝野氏が民主党政府への参加を“国民への最後のご奉公”だと考えているのだとすれば<ああ、これで終わりでけっこう>なわけです。この“やり込め”には何の意味もありません。
  今回のことだけではありません。石原氏の発言には常に“論理と詰め”が欠けています。言うこと、することのすべてが大雑把なのです。石原氏の頭脳はとうに東京都知事が務まるものではなくなっています。引退すべきです。それが、都民のため、というものです。
  こんな人物を知事に担いでいても恥じることがないと見える都民も石原氏なみに大雑把なのでしょうかね?
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  この与謝野氏を「たちあがれ日本」の平沼代表も“酷評”してこう述べたそうです(1月15日 読売新聞)。
  <よほど大臣になりたかったのだろう。(入閣の際)官邸に向かう時の顔はにやけ、うれしさいっぱいだった。情けないと思った」>
  人間というのは、当たり前のことなのですが、自分が理解できる範囲でしか理解できないものです。平沼氏は、自分が入閣する際にも<顔はにやけ、うれしさいっぱい>なのでしょうね。自分がそうだから他人もきっとそうなのだろう、と思うのでしょうね。<情けない>とは平沼氏の与謝野観の方です。一党の代表がこの程度の、軽々しい人物評を行って得意がっているのですから。
  「たちあがれ日本」が設立されたときに、誰かが「立ち枯れ日本」と呼んだそうですが、石原氏と平沼氏の上のような、生産性がまるでない発言を知ると、当たっていたな、と思います。<終わり>なのはこの政党と、もう知力が十分ではなくなっている石原氏、平沼氏の方でしょう。