自民党の「愚民化」政策のお先棒担ぎはNHKだけではない

第122回  手抜き妖怪“オリ・オラズ”の跋扈を許すまい

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  日本語の世界を“オリ・オラズ”という手抜き妖怪が跋扈しています。
  報道番組で特にそれが顕著です。

  “オリ”というのは、現代ではほとんど見られ(聞かれ、使われ)なくなった“オル”の一形態で、“オリ”と“オラズ”は“オル”から生まれた双子同士の“妖怪”だ−とたとえることができるかもしれません

  ニュース番組などに頻繁に顔を出すその“オリ・オラズ”の親“オル”がそもそも何者であるかを調べてみると−。

  【オル
  <現代国語例解辞典>(小学館) 補助動詞。動詞の連用形に、助詞「て(で)」を添えた形に付き、「…ている」の意を表す。(抜粋)
  <新潮国語辞典 現代語・古語> 動詞の下に付き、動作・状態の継続・持続の意味を添える。自分を卑下する語。また他人の動作を卑しめののしる語。(抜粋)

  その子の妖怪“オリ・オラズ”がどういうふうに報道界を席巻しかけているかというと、例えば−。

  2009/03/14-15:27 時事
  <中国当局は、10日のチベット動乱50周年と合わせ、徹底した取り締まりと「愛国教育」を続けておりラサ市では治安部隊による厳戒態勢が敷かれた>

  2009年3月14日2時0分 朝日
 <後任の救急医はまだ2人しかめどがたっておらず、4月以降のセンターの機能に不安の声が上がる異例の事態となっている>

  この二つの例から明らかなのは、第一に、報道界をいま跋扈している妖怪“オリ・オラズ”からは<自分を卑下する語。また他人の動作を卑しめののしる語>という要素、特に後者がすっかり抜け落ちているということです。

  ですから、このごろのニュース番組では、<麻生首相は……を認めておらず>といったような言い方が普通に見られ(聞かれ、使われ)ます。いえ、そんなふうに述べることがむしろ流行しています。
  麻生氏はとても首相の器ではないと思う人も少なくないでしょうが、それでも、自国の首相の行動・状態を<他人の動作を卑しめののしる語>で表現していいのでしょうか?
  <中国当局>を“オラズ”と<卑しめののしる>のは新聞やテレヴィの正しい姿勢でしょうか?

  “オリ・オラズ”がのさばる以前には、新聞などは大方、次の例のように表現していました。

  2009.3.14 13:35 産経
  <同署幹部は「けが人は出ていないが、転倒する恐れがあることや、住民から不安の声が多数寄せられたことから、悪質な行為と判断した」としている>
  <多数寄せられており>ではありませんね。手抜きのない、論理が通った、きれいな表現の一例です。

  上の朝日の記事でいえば、<後任の救急医はまだ2人しかめどがたっていないために、4月以降のセンターの機能に不安の声が上がる異例の事態となっている>と書けば、だれかを<卑しめののしる>ことにも、論理の手抜きにならないのです。
  時事では<中国当局は……を続けるだけにとどまらずラサ市では治安部隊による厳戒態勢を敷いた>というのはどうでしょうか?

  つまり、第二に明らかなのは、日本の放送・報道界は(自分たちが何をしているかが分からないまま)日本語の“おろかな簡便化”に向かって突き進んでいるということです。どこででも妖怪“オリ・オラズ”を使ってすませようとしているのです。

  文の節と節を手抜きの言葉でつなぐことが普通になれば、日本人の思考能力までが劣化してしまいます。ある事柄と他の事柄のあいだにある正しい関係(つながり)が見えなくなってしまいます。筋道をちゃんと立てて物事を見ることができなくなってしまいます。
  日本語だけではなく、日本人の思考能力さえも劣化させてしまいかねないこんな“妖怪”をいま以上にはびこらせてはなりません。
  
  ところで…。
  “オル”については、ドラマの脚本でも事態はかなり深刻になっています。
  <主君XX公は……と言われておった><……と言っておられた>とういようなせりふが頻繁に聞かれます。…どこかがおかいいと感じませんか?
  <いられる><いられた><いらっしゃる><いらっしゃった>をこのまま死語してしまっていいのでしょうか?

  “悪語”に“良語”を駆逐させてはなりません。

自民党の「愚民化」政策のお先棒担ぎ NHK 

第144回 “悪語”が日本人を愚かにする…

  NHKでアナウンサーが読むニュース・情報などの原稿を書いているのはいったいどういう人たちなのでしょうか?国語教育をまともに受けるか、あるいは、国語力を自分で十分に研いた人たちなのでしょうか?
  この人たちは、そもそも、良い日本語を使いたい、守りたいと一度でも考えたことがあるのでしょうか?
  
  たとえば、いまNHKで流行中の「(この春は)XXが“注目”です」「(この春の)“注目”はXX!」というような表現はどんな日本語環境の中で育った人の頭から生まれてくるのでしょう?
  いえ、「(この春は)XXが“注目”」「(この春の)“注目”はXX!」は雑誌の見出しとしてなら受け入れてもいいのですよ。
  ですが、<XXが“注目”><“注目”はXX>は、NHKのニュース・アナウンサーやナレイターが口にする言葉としては“最悪”というだけではすまずに、“醜悪”の域にも達している、とつけ足さなければなりません。

 

  なぜといって…。
  第一に、これではいったい<だれ>が“注目”するのか、“注目”しなければならないのかが分かりません。<いつ、どこで、だれが、なにを、どうする>などといったニュースの原則的な要素のうちの<だれ>をすっかり無視して、結果として<XXに“注目”しろ>とNHKの意思を押しつけています
  …伝える事柄に品格や信頼性を保つために、NHKのニュース・アナウンサーは、このような、情緒が主導する、扇動的な言葉づかいをできるだけ避けなければならないというのに。
  第二に、こんな表現が普通になされるようになると…
  1.(地元の人たちが)XXに注目しています
  2.XXは(都会に憧れる若者たちに)注目されています
  などといった本来の言い方がすべてニュース・情報番組から消えてしまうことになります。日本語がいたずらに劣化、萎縮してしまいます。日本語の表現から、幅と豊かさ、整合性が失われてしまいます。
  そういうものが失われるということは、つまりは、日本人の思考能力がそれだけ衰えることを意味しますNHKはいま、率先して日本語を貧弱にし、日本人の頭を中身が薄い、単純なものにしているのです。
  許しがたい“悪行”“愚行”だと言えます。

  もう一点。
  NHKがここ数年間にすこぶる好きになった(つまりは、目に、ではなく“耳にあまる”ほど頻繁に使う)表現に「注目を集める」「注目が集まる」というのがあります。手元にある「現代国語例解辞典」(第二版)には、「注目」につづく動詞として「集める」「集まる」の用例は載ってさえいないというのに。
  この辞典の“注目”の説明は「注意してよく見ること」「関心をもって見守ること」となっています。すると、「注目を集める」「注目が集まる」は<…注意して見ること>を集める<…関心をもって見守ること>が集まる
  落ち着きのない言葉づかいだと思いませんか?

  “注目”には<注ぐ>という動詞がこの単語の造りに大きく関わっています。「注目を集める」に落ち着きがないのは、<注ぐ>と<集める>という似た意味を持つ二つの動詞が重複して絡んでいるからです(<注目を“浴びる”>も同様に落ち着きが悪い響きを持っています。<(熱い)視線を浴びる>などの言い方の方が自然だと思います)。

  「注目を集める」「注目が集まる」にはそのほかにも大きな問題があります。
  この言い方を多用するようになってから、NHKのニュース・情報番組から事実上消えてしまった単語があるのです。「関心」と「興味」です。「関心が増す」「関心が高まる」「興味が湧く」「興味を引く」などとった表現が事実上使われなくなっているのです。
  “注目”という“悪語”が「関心」や「興味」といった“良語”を駆逐しているわけです。日本語をそれだけ貧相にしているのです。

  日本語から多様な言い方がなくなってしまうと…。
  ここでも同じこと。日本人の思考に幅や深さがなくなってしまいます。日本人は単純な言葉しか使えない、短絡的な頭脳の持ち主になってしまいます
  そこのところをNHKは考えてください。放送で使う日本語を貧相にして日本人の頭脳まで劣化させるのはやめてください。
  NHKは、ニュース・情報番組などの原稿を書くスタッフへの教育を正しいものにしてください。日本人に範を垂れるような正しく美しい日本語が常に使えるように、その人たちを育ててください。

  まさか…
  NHKは日本語を貧相で醜悪にすることで、日本人の頭脳を意図的に衰弱させようとしているのではないでしょうね?

          -

  ところで、次の文を見てください。
  <世界初の定期航空は1914年に米国で誕生した。2人乗りの1人がパイロットで、1人が乗客だった。片道20分ほどの飛行は人気だったが、客が1人では採算がとれず、4カ月で営業停止になったそうだ(『飛行機は世界を変えた』岩波書店)>
  朝日新聞(2010年1月10日)の<天声人語>の書き出し部分です。
  「片道20分ほどの飛行は人気だった」?「人気」とだけ書いて<人気が高かった><高い人気を集めていた>などと言おうとしているのです(スポーツ選手が「“結果”を出す」というときに、実は、<悪い結果>は頭になくて、<良い結果><納得できる結果><悔いが残らない結果>などといったことを意味しているのと同様の、底が浅い省略用法ですね)。
  「(この春は)XXが“注目”です」「(この春の)“注目”はXX!」というような(見出しもどきの)表現がいまほど当たり前になると、(大学の入学試験で使われることがある、名文が多いと信じられている、あの)<天声人語>までが「飛行は人気だった」などという愚かで手抜きされた言葉づかいをするようになるという例です。
  どうです?“悪語”にはこんな恐ろしい力が現実にあるのです。

20090704    第124回 <にほん>の語感を愛する心

第124回 <にほん>の語感を愛する心

  
  先生のあのときの担当科目が国語だったのか、社会だったのか、あるいは理科だったのか、それともほかの何かだったのかも覚えていません。
  先生の名前もすっかり忘れています。不思議なことに、その顔はいまでも鮮明に思い返すことができるのに…。

  1960年、受験勉強に励んでいた中学三年生のときでした。それに間違いはありません。
  ですが、授業のどんな流れの中からそういう話が出てきたのかもまったく思い出しません。

  とにかく、その先生は<日本>という字を黒板に書いてから(実は、福岡の方言混じりでだったのですが)こんなふうに話したのでした。
  
  「これだけどね。<にほん>と読むべきか<にっぽん>と読むべきか。…どう思う?ボクは<にほん>とする方がいいと思っているけどね。なぜといって、<にっぽん>と読むと、軍や軍人たちが何かというと<だいにっぽんていこく>なんて声高に叫んで国民を戦争に駆り立てていった戦前、戦中をどうしても思い出してしまうからね。語感がやわらかい<にほん>がボクはいいな」

  あのとき、先生の年齢は五十歳代の初めだったはずです。
  話を聞き終えたときにすぐにわたしの頭に浮かんだのは<あ、これは“告白”だ>という思いでした。直感でした。
  <先生自身が“だいにっぽんていこく万歳”などと叫んで、自分の教え子たちを積極的に戦場に送り込んだ“軍国教師”だったのに違いない。だから、そのことを反省して、いま、あえて、“にほん”の方が好ましいと言っているのだ>
  
  “戦後”15年。“60年安保”をめぐる左右の対立で、首都東京は騒然としていました。
  その“戦後”に生まれた平和至上主義ムードに取って代わろうとでもいうように、教育の現場にも“復古”の波が押し寄せ始めていたのかもしれません。
  先生は、世の中のそんな変化を憂慮して、唐突に、生徒たちにそんな話をする気になったのではなかったでしょうか?
  そんな気がします。
  本来の授業内容とは無関係に、ふとそんな“告白”をしてしまった先生がすごく優しく、人間味を帯びて見えていました。
  
  読売新聞のインターネット版(2009年6月30日)に<「にっぽん」「にほん」、どちらも「日本」…政府が答弁書>という見出しが付された短い記事がありました。
  <政府は30日の閣議で、「日本」を「にっぽん」と読むか「にほん」と読むべきかについて、「いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はない」とする答弁書を決定した>というものです。

  正直に言いますと、日本=自民党政府にまだこのような柔軟性が残っていたことに、わたしは驚きました。
  憲法改正、軍事力強化、自衛隊の活動拡大などを戦後ほぼ一貫して追い求めてきた自民党は、その党員の多くが(公に認めるかどうかは別にして、多かれ少なかれ)大東亜戦争肯定論者であるに違いありません。
  その戦争に日本国民を追い立てたのは<だいにっぽんていこく(陸軍・海軍)>でした。
  <にほん>か<にっぽん>かと問い詰められるようなことがあれば、日本=自民党政府は(呼び方に関する歴史上の事実がどうであれ)ためらうことなく<“にっぽん”だ!>と回答するに違いないと、わたしは思い込んでいました。
  その出発点から右へ右へと傾きつづけてきた教科書検定の長年の歴史がそのことを証明しているはずでした。

  ところが、今回の答弁書は…。

  日本=自民党政府のこの答弁をわたしは、無条件に、歓迎します。
  福岡のあの中学校で<にほん>という呼び方を(ずいぶん複雑な思いで)支持したあの先生の、あの、ちょっと気後れしたような、それでも誠実さが目ににじみ出ていた表情を思い出しながら…。

20091109 第137回 官僚の(価値観に基づいた)、官僚による、官僚のための政治 と 報道機関

第137回 官僚の(価値観に基づいた)、官僚による、官僚のための政治

  日本のマスコミが近頃、全体としてますますおかしくなっています。
  その最大の原因は<自民・公明から民主への政権交代とはどういうことなのかがマスコミには分かってない>ということにあるようです。

  念を押しておく必要があります。
  第一に、この政権交代は事実上、戦後、といよりは、日本の政治史上初めてのものです。政権を奪った側にも、奪われた側にも、とにかく過去には経験がないことなのです。交代後の数か月、あるいはそれより長いあいだ、政治の動きが滑らかにいかないのは当然考えられることでしょう。
  自民党でさえ−。来年度予算が膨大になること=赤字国債の発行額が拡大すること=を批判したあとで、鳩山首相に<あなた方には言われたくない。ここまで膨らませてきたのはあなた方ではないか>という具合に簡単にやり返されてすっかり面目を失ってしまいました。つまりは、もともと自省という習慣がほとんどなかった自民党ですが、この党にもやはり、野党慣れするまでの時間がまだ、かなり要るだろうということです。

  では、マスコミはというと−。
  自民党よりも悪いかもしれません。<政権交代後の動きが滑らかにいくはずがない>という、普通の国民には分かりきったことがまったく理解できていないのですから。
  いやいや、もっといけないのは、新政権のいくらかぎくしゃくした動きをマスコミが(あたかも自分たちにはすべてが分かっているというような態度で)“重箱の隅をつつく”ように=何がいま重要なのかの検討を十分にはしないで=批判していることでしょう。

  8月の衆院選挙の前は“民主党の応援団長”のような顔をしていた<ゲンダイネット>までがこう言っています。
  <民主党に政権担当は無理なのか、毎日の新聞を見ていると、民主党政権を批判する記事があふれ、「混迷」といった文字が躍る。鳩山政権に期待していたのに、大丈夫か……と不安になってくる国民も多いはず。米軍の普天間基地の移設問題も迷走しているし、予算編成もモメている。さらにイヤなのは民主党の看板のはずの「脱官僚」も後退している>(11月9日)

  次の<読売新聞>の記事を見てみてください。

  元大蔵次官の斎藤次郎氏の日本郵政社長就任に続き、政府が同日、人事院総裁含みで人事官に江利川毅・前厚生労働次官を充てる同意人事案を国会に提起したことに野党側が一斉に反発。鳩山首相は官僚が省庁のあっせんで再就職することが「天下り」であると定義し、一連の人事は問題ないと主張するなど「脱・官僚依存」から現実路線に軌道修正を図っている。(2009年11月5日)

  <「脱・官僚依存」から現実路線に軌道修正を図っている>ですって?
  元官僚を起用すると、それがすなわち“官僚依存”?“天下り”?
  もう一度言います。<読売新聞>だけではありません。マスコミ全体がこの調子なのです。
  だったら、元官僚=官僚出身=の民主党議員が政策決定に加わると、それは何?“官僚政治”そのもの?
  ばかなことを言ってはいけません。
  
  東京放送(TBS)を退社したあと政治評論をつづけている 田中良紹(たなか・よしつぐ)という人物はこう考えています。
  <「天下り」が問題なのは、第一に官僚の人事権を政治家ではなく官僚が握ってきた事、第二に国民から預った税金をその人事に関して無駄遣いしてきた所にある>

  つまり、人事権を政治(政府)が握っている限り、その人事は“天下り”とは言えない=“官僚依存”への逆戻りではない=という考えです。

  上の<読売新聞>のような意見が“恥ずかしげ”もなく展開されるのは、マスコミがそもそも<“官僚政治”とは何か>についてまともに考えたことがないからに違いありません。
  怠慢なことに、マスコミはそれを定義づけたことがないのです。
  ですから、鳩山首相の<官僚が省庁のあっせんで再就職することが「天下り」>だという定義に対してまともな反論ができず、自民党と声をそろえて<軌道修正>だと噛みつくことぐらいしかできないのです。

  では−
  可能な限り単純化するために、だれでも知っている、リンカーン大統領のあの表現をまねて定義づけると“官僚政治”とはこういうことになるのではないでしょうか。
  <官僚の(価値観に基づいた)、官僚による、官僚のための政治

  官僚の世界に目を向けた=官僚の利便を最優先にして行う=“政治”です。
  日本の政治は、実際に、明治政府の創設以来、ほぼそのように行われてきたはずです。
  そして、その官僚たちに頼り切って政府が政策を決め、実行するのが“官僚依存”です。
  ですから、たとえ<官僚による>政治でも、それがたとえば<国民の価値観に沿った、国民のための>ものなら、それは“官僚政治”ではありません。

  田中氏がいう<官僚の人事権を政治家ではなく官僚が握ってきた事>というのは<官僚による>、また、<国民から預った税金をその人事に関して無駄遣いしてきた所>というのは<官僚のための>に当たるでしょう。

  <元大蔵次官の斎藤次郎氏の日本郵政社長就任>は“天下り”か?
  ここではやはり鳩山首相の言い分が正しいのです。<官僚が省庁のあっせんで再就職することが「天下り」>なのです。

  政府の構成員は、これまでのどの内閣でも、ほとんど、あるいは全員が国会議員です。国会議員は選挙で国民に選ばれています。国民への責任を負っています。それに対して官僚は、だれからも選ばれていないし、失政があってもだれにも責任を取ることがありません。その大きな違いをマスコミは無視しつづけています。
  官僚(主導)政治が悪いのは主に(政治家主導と違って)、国民全体の利益に反する=主として官僚を利する=政策を取り決め、行っても、国民に対して、官僚は責任を取らないですむからです。国民によるチェックを直接に受けることがないからです。

  間違った人選ということはあり得ますが、(元)官僚が何かの役職に起用されても、国民の代表である=選挙で国民にチェックされる=政府が決めたのであれば、それは構造としては“官僚依存”ではありません。人材を官界出身者に求めたというだけのことです。
  鳩山首相の反論を“路線の軌道修正”だと主張したいのなら、マスコミはまず“官僚政治”とは何かについての考えを明確にしなければなりません。他人の言葉尻を捉えて批判めいた=気が効いたふうの=ことを言っているだけではだめなのです。

  この政権交代を受けてマスコミは民主党政権以上にもたついています。自民党以上に迷走しています。“混迷”しているのはマスコミの方です。マスコミはいま、腰を落ち着けて検証し分析することを忘れて、怪しげな意見や見解を国民に向かって投げかけつづけています。
  そうそう−
  検察の捜査が身近に及んでる鳩山首相に向かって<説明責任>を果たすように執拗に求めて、マスコミが国民を“首相はクロ”の方向へ誘導しているのもその一例です。警察・検察の捜査の対象になっている人物は(たとえ首相でも)自己に不利になる=自分を罪に落としいれる=恐れがあることを自ら進んで述べる必要はありません。それが民主的な、現代の司法の基本というものでしょう?
  −−名誉毀損で訴えられる=法廷での係争に持ち込まれる=ことが少なくない新潮社や文芸春秋社は、ほとんどの場合は<事実関係は法廷で明らかにする=明らかになるだろう>などと述べて、事がどう展開するかを見ます。それでいいわけです。出版社が“説明責任”を追及されることはありません。政治家にも同じ(説明を避けるという)“権利”があります−−

  マスコミが望むような“説明”をしない首相をどう受け止めるか=次の選挙でだれに、どの党に投票するか=は国民が決めることです。その国民がどう判断するかにもよりますが、鳩山首相はいずれ、自らが犯した失敗の責任を(検察の捜査の行方とは別に)取らせられることになるでしょう。そんな中でマスコミが警察・検察の代理人になろうというのは大きな“考え違い”です。
  警察・検察が歴史上で何度も犯してきた過ち“自白強要”をマスコミが首相(や小沢民主党幹事長)に向かって繰り返すのを見るのは実におぞましいことです。

  思慮が浅いマスコミは国民にとっては“百害あって一利なし”の存在だと言えます。

 

  (2026年7月13日) 政権与党が官僚組織をも完全に支配して相互癒着・利益共有体制を確立し、国民の利益を損ねつづければ? それについては<政権与党の価値観だけに基づいた、政権与党だけによる、政権与党だけのための政治>と名づけることにしましょう。 

2008/09/15   第95回 ちゃんと懲らしめておかなかったら政治家は…

第95回 ちゃんと懲らしめておかなかったら政治家は… 2008/09/15 閲覧(258)

  “失言”する政治家は、自分が愚か者であることに気づいていないから、愚かな発言を何度でも繰り返すのでしょうね。

   最初の“失言”のときに国民が正しく懲らしめておかなかったら、こういう政治家は一生、自分が愚か者であることに気づかないのでしょうね。
   懲らしめられないと“あれでいいのだ”と居直り、増長するのでしょうね。

   太田誠一農水相は(あれが“最初”だったとは思えませんが、少なくとも)2003年の議員時代の、あの愚かで犯罪的な発言で、その政治生命完全にを失っているべきでした。
  日本で少子化が進行していることに関して太田議員は(集団レイプ犯罪を起こした学生グループ<スーパーフリー>を“擁護”して)若い男性たちに「プロポーズが出来る勇気が無い人が多くなっている」「集団レイプをする人はまだ元気があるからいい。 まだ正常に近いんじゃないか」と言っていたのですから。
   太田氏は同年11月の衆院選挙で落選させられましたが、それはまだ“正しい懲らしめ”ではなかったようです。2005年9月の選挙で復活してしまいました。8回目の当選でした。

   集団レイプは格別に卑劣な犯罪です。被害者の苦痛は肉体的なものにとどまらず、精神的にも(被害女性のその後の生き方をも左右する)すこぶる大きいものであるに違いありません。
   太田氏の選挙区(福岡3区)の(特に男性)有権者は何を考えていたのでしょうか?「一度落としてお灸をすえたからもう“先生”もだいじょうぶだろう」?
   まったく“だいじょうぶ”ではありませんでした。
   復活した太田議員は再び“失言”を繰りかえします。まともに反省してはいませんでした。
   
   わたしたちの記憶に新しいところでは…。

   先月、8月10日の時事通信によると…。<太田誠一農水相は10日のNHK番組で、中国製冷凍ギョーザ中毒事件などを踏まえた食の安全への取り組みについて、「日本国内では心配しなくていいと思っているが、消費者がやかましいから、さらに徹底していく」と述べた>ということです(<「社会主義の国と日本のような民主主義の国は違っていて、消費者としての国民がですね、やかましくいろいろというと、それに答えざるを得ない」>朝日新聞9月19日)。
   この<やかましい>は、たとえば、<あの客は味噌汁の味にやかましい(こだわる)>というのとは意味が違っています。明らかに、消費者が<あれこれ言ってうるさい>と言っているのです。<消費者がやかましくなかったら放っておくところだが…>とは、いったい、どういう責任感なのでしょう?
   太田氏は再び、農水相としてはもちろん、議員としてもまったく不適当な発言をしてしまったのです。

   9月13日の時事通信は、太田農水相が、食用として扱うことが禁じられている<事故米の転売問題で「事業活動をやっている経営者にも権利がある」と発言した>と報じました。法律で禁じられている(倫理的にも許されない)行為をつづけてきた経営者にも「権利がある」?
   これには、自民党のオトモダチである公明党の木陽介選対委員長も(自公一体として次の選挙を迎えるのにマズイと)危機感を覚えたらしく<「権利なんてない。農水省はじめ役所、行政の責任は国民の生命と財産を守るのが第一義だから、それを無視して経営者側の論理を言っているならとんでもない話だ」と述べ、農水相を厳しく批判した>そうです。

   その事故米に関してはさらに、太田農水相は<汚染米の転売問題に関連し「(汚染米から検出されたメタミドホスは)低濃度で、人体への影響はないと自信をもって言える。だから、あまりじたばた騒いでいない」などと発言した>(毎日新聞)ということです。
   こういう米を食べさせられてはかなわないと感じている国民の不安をばかにするかのような発言ですよね。不正な転売を行って不当な利益を上げていた企業をかばう意図が、あまりにも、あからさまですよね.
   
   この人の目は国民に向いていません。一人ひとりの国民が日々どんな思いで生きているかが、この人にはまるで見えていません。
   この人は自分がいかに愚かな人間であるかが分かっていません。
   あの<集団レイプ擁護発言>の際に、この人には“引導”を渡しておくべきでした。

   (国民にとっては幸いなことに)次の衆院選挙が近いようです。有権者は太田氏を落選させるべきです。
   どうやら<自分は賢いんだ>と思い込んで、独りよがりで無責任な発言を繰り返すこういう人物は二度と議員になれないようにすべきです。
   このような議員をほかに出さないためにも、次の選挙では、太田氏を正しく懲らしめてやるべきです。

   (それにしても…。自分の国の大臣をこのレヴェルで批判・非難しなくてもいい日がいつか来ればいいのですが…)

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