再掲載:2011-08-25  第211回 「入った!入った!」には普遍性がない

  日大三高の猛打がことしの「夏の甲子園」を制しました。高校野球ファンの夏が終わりました。
  さて、この大会の決勝戦をNHKの国際放送で見ながら改めて感じたことがあります。自分が口にしていること−−聞いていること−−が理屈に合っているかどうかについて考える習慣が日本人には、やはり、ないようだ、ということです。
          *
  野球の中継放送でこんな場面に出あいます。打球が外野の奥深くに飛んでいきます。アナウンサーが「大きい!ああ、入るか、入るか」などと言います。球場の(ほとんど)全観客が見守る中で打球が外野のウォールを越えます。アナウンサーが「入った!入った!」と絶叫します。
  そこで、ふと、それでいいのだろうか、と考えてしまうのです。
  甲子園球場を含めて、プロ野球の本拠地球場などを除けば、ちゃんとした外野席が備わっている球場は日本にいくつあるのだろうか。アマテュアのティームが週末などにプレイを楽しむ、日本中の大多数の小さな野球場には、まあ、外野席はないだろう。そんな場所で、あるプレイヤーがフェンスまたはウォール越しのホームランを打ったら、その場のプレイヤーや応援している家族たちはそれをどう表現するのだろうか。当然のことながら、「ああ、入った!」とは言わない−−思わない−−のではないか。
  だって、フェンスあるいはウォールの向こう側は駐車場だったり、雑木林だったり、校舎の壁だったり、ちょっとした道路だったりするだけですからね。そこには“入る”構造物がないのですからね。つまり、高校野球の県大会決勝戦プロ野球の試合が行われるような球場を除けば、「入った!入った!」というのは、その状況にふさわしい表現ではないのです。「入った!入った!」は日本全国のどの野球場でも使える言葉ではないのです。「入った!入った!」には普遍性というものが欠けているのです。
  これに対して、アメリカでは、アナウンサーは「ゴーイングゴーイング…、ゴーン(あるいはグッバイ)」などと言うのが普通です。外野の奥に向かって飛んでいた打球がフィールドを「出て行った(グッバイ)」というわけです。これなら外野席が備わっていない球場ででも使うことができますよね。合理的な表現です。
  「ゴーン=出て行った」は、日本でいうランニングホームランを「インサイド・(ザ・)パーク・ホームラン」と呼ぶこととも整合しています。選手たちがプレイするフィールドが「インサイド」なら、そこに外野席があろうとなかろうと外野ウォール(あるいはフェンス)の向こう側は打球が「出て行く」ところ、「アウトサイド」なのですから。「ゴーン(グッバイ)」はどこの野球場ででも使うことができる、普遍性がある表現であるわけです。
          *
  物の考え方のこのような違いを軽く考えてはならないと感じています。
  物事を詰めて考えればそれには実は普遍性がない、ということがあることに、日本人はもっと目を向けるべきです。
  本当はあいまいなことを口にしている−−耳にしている−−のに、それに気づかない人間にすべての日本人をしてしまってはなりません。
  日本人はもっと普遍的な思考ができるようになるべきです。フェンスまたはウォールを越えた打球が落ちるところは必ずしも外野席ではないということに気づくべきです。大きな球場でただ「入った!入った!」と浮かれているだけでは現実=事実が見えるようにはならないのです。
  観客席がない−−打球が入っていくところがない−−野球場が世間にはあふれているということに気づかなければならないのです。
  視野や視角を広げ、異なる角度から物事を見る習慣を身につけなければならないのです。
          *
  日本の政治が乱れきっています。大きな理由の一つは、合理的に物事を考える政治家が(自民党河野太郎氏あたりをまれな例外として)極端に少ないということです。裏づけがない、理屈に合わないことでも大声を出せばそれが通ると信じている政治家が政界の中心部に多すぎるということです。
  さて、さて、民主党の代表選挙が迫っています。
  たとえば、東日本大震災東京電力福島第一原子力発電所の大事故から復旧、復興するためのカネをどう工面するか?ずいぶん差し迫った大問題ですよね。
  ・さらに膨れ上がった借金を将来に残さないためには何らかの増税が避けられない!…いや、待て。いま増税が必要だと言ってしまうと、次の選挙で議席を減らすし、そもそも、増税したのでは日本経済が萎縮するではないか!!
  ・だから、将来に影響が及ばない短期の国債を追加発行してこの大危機を乗り切ればいいのだ!…いや、待て。短期とはいえ、国の借金をいま以上に増やせば、国債の格づけが下がって国際的な信用を失うし、日本経済全体が二進も三進も行かなくなる!
  さあ、代表選挙に立候補したい民主党議員たちはどうする?
  ・いや、いや、いたずらに波風を立てることはない。ここは(日本社会が愛してやまない)“玉虫色”の案を世間に向けて発しておけばいいだろう。そのうちになんとかなるさ、いままでがそうだったように。
  …だれも責任のある、明確な意見を述べません。
  ・硬いことを言うな。野球場に外野席があるかどうかなんて細かいことはどうでもいいじゃないか。マスコミがニュースにするような試合にしか、どうせ、国民は関心がないのだ。「入った!入った!」とみんなで言っておけば、それがホームランであることが分かるじゃないか。
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  政治家が無責任になったのは、端的にいえば、国民が物を詰めて考えないからです。マスコミがそうだからです。
  現在の政治停滞の大部分を生み出しているのは菅政府でも、民主党でも、自民党などの野党でもありません。国会での衆院参院の“ネジレ”現象が構造的に停滞の原因となっているのです。各政党は、それはそれで始末が悪いのですが、その“ネジレ”を自分の都合に合わせて利用しているだけなのです。そして、そこで忘れてならないのは、前の参議院議員選挙民主党過半数を取らせなかった−−衆院参院の“ネジレ”を創出した−−のは、ほかのだれでもなく、国民=有権者自身だったということです。ですから、つまりは、この停滞は国民が自ら望んだものだ、ということになります。そうではありませんか?
  国民は、そのことに無責任になってはいけません。自分たちが政治を停滞させる道を選んでおきながら、政治がうまく機能していないことに不平を述べるのは卑怯というものです。
  歴史的な政権交代の意味を国民が合理的に受けとめていたら−−打球は実際にはどこかに「入る」のではなくプレイフィールドを「出て行く」のだと、自分たちの居所を足場にして、大局的に、冷静に状況を理解するような能力を有していたら−−この“ネジレ”現象を原因とする政治停滞は起こっていなかったかもしれません。民主党にもう少しだけやらせてみてから結論を出そう、という選択もありえたわけですから。
  “ネジレ”現象がなかったならば、政局が与野党挙げての“菅降ろし”に走ることもなく、東日本大震災東京電力福島第一原子力発電所の大事故への対応ももっと手際よくできていたかもしれません。
  あいまいにしておけば、進む道はそのうちに見えてくるだろう、という政治家たちが、マスコミが、日本を悪くしています。
          *
  野球の中継放送からでさえ、何かが見えてくることがあります。
  

恐怖の<愛国教育>

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恐怖の<愛国教育>

2006-11-23 ステアク・エッセイ =35の再掲載


黙っているときではないかもしれませんよ
               *
  NHKの番組「クローズ・アップ現代」をマニラのケイブテレヴィでも見ることができます。
               −
  この番組で先日、恐ろしいものを見てしまいました。初めのうちは、気を集中させて見ていなかったもので、正確な再現がここでできないのが残念ですが、わたしが<恐ろしい>と感じたのは、日本のある小学校である女性教師が実験的に行っていた“愛国心”を高揚させるための授業が紹介されたときでした。
  この教師は、桜や紅葉で前景が飾られた富士山の美しいパネルを数枚用意して<四季のある日本はすばらしい>ということを生徒たちに教え込もうとしていました。
  そのための<道具>としてこの教師は<南の暖かい国からやって来ている>スージーという女性を考案していました。そして、このスージーに「ああ、日本はいいな、四季があって。わたしの国には四季がないから単調でつまらない」というような意見を述べさせます。
  まるで、南国に住む人たちがすべてそう思っているかのような扱いです。
  こういう画一化を一方では<偏見>と呼ぶのではありませんか。教育の場で育てられ、煽られた<偏見>がファシズムの大きな武器として使われたのはそんなに遠い昔のことではありません。
  この教師自身は<南の国>に長年住んだことがあるのでしょうかね?あったうえで自分が<日本は四季があるからいい>と思ったというのなら、それはこの教師の意見として何の問題もありませんよね。ですが、この教師はスージーとかいう、自分が考案した女性に日本を美化するだけではなく、自分の国を卑下するようなことを言わせているのです。僭越というより、まったくの傲慢です。
  もっと恐ろしい場面がありました(ここをちゃんと見ておかなかったことが悔やまれます)。
  ある女生徒が<四季があるとなぜいいのですか?なくても美しいものは美しいのではありませんか?>というような意味の質問をしたのです。
  わたしはこの生徒の感性のすばらしさにすっかり感心してしまいました。
  同じNHK国際放送で別の日に、ペルーの山岳地域にすむ人たちの暮らしを紹介した番組がありました。海抜3,500〜4、500メートルという場所で数種のジャガイモも作り、数十頭の家畜を飼いながら生きる家族に焦点が当てられていました。
  男の子二人、女の子一人という子供たちのうちの長男は、将来は(同じ山岳地帯内の小さな、市場や学校があって、ある程度賑やかな)町に住みたいと考えていますが、次男(14歳)と娘(9歳)はずっといまの場所で暮らそうと考えているようでした。そこでの暮らしが好きだからです。
  <こんな風呂もシャワーもないところで?学校に行くのに二時間以上も山道を駆け下りなくてはならないのに?食べるものといったらジャガイモしかないのに?>とあなたは問いかけますか、この子たちに?
  美しいものは美しいのです。好きなものは好きなのです。その感じ方を誰かに強制することはできないのです。強制してはいけないのです。
  “愛国教育”の実験授業中の女教師は、彼女の主張に疑問を感じた女生徒に「だって、スージーの国では一年中、同じ花を見てなきゃならないのよ」と、脅迫的だとも思える“指導”を行い、NHKのナレイションによると、この女生徒も最後には<日本の方がいい>という意見に同調したということでした。
  恐ろしい、と思いませんか?
  何を美しいと感じるべきかを強制的教えるのが<愛国教育>なのです、この教師には。
  放っておくと、やがて日本中の学校がこういう教師であふれるようになってしまうかもしれません。…戦前のように。
  <教育改革><愛国心の高揚>などを謳い上げている安倍首相の狙いはそこにはない、と言い切れますか?
  煎じ詰めれば、事が何であれ、お上が<こう感じなさい>といったらそう感じろ、ということなのですよ、この手の<愛国教育>というのは。
  たとえ、一年中同じ花を見るしかない国があったとしても、その国の人たちがそれを退屈だと感じているかどうかは、知りようがありません。外国人が決めつけることではありません。それは、まして、外国の教師がそうだと信じて、教育の場で、生徒たちに偏見として教え込むべきことではありません。
  他の国の人たちが彼ら自身の国を愛しているという事実を教えない<愛国教育>は実に危険です。それはむしろ<亡国教育>です。

           

再掲載: 2011-07-10   第206回 またまた「翻訳はむずかしい!」

  翻訳という仕事は難しいものです。「苦言熟考」は過去にも何度かそう述べたことがあります。
  5月に日本に里帰りしたときに、兄の本棚にたまたま「サザンクロス」(パトリシア・コーンウェル)の文庫本(講談社 相原真理子訳)がありましたので、それを借りてきて、いま少しずつ読んでいます。コーンウェルの小説はペイパーバックでそれまでに七、八作ほどは読んでいましたので、その日本語版にも、まあ、なんとなく親しみを感じたものですから。
  この本は、しかし、それ単独にではなく、BERKLEY FICTIONの英語本と平行させて読んでいます。前に「合理的な疑い」(ハヤカワ文庫 延原泰子訳)という小説の日本語があまりにひどかったことを思い出してにわかにわいてきた好奇心から、相原氏の翻訳も原文と比べてみようと思ったからです。
  まだ半分ほどしか読み進んでいませんが、大まかな印象では、相原真理子訳は「合理的な疑い」の延原泰子訳よりも数段は優れているようです。しかしながら、それでも、「翻訳というのは難しいものだ」と改めて思わせられる個所にところどころで行き当たることがあります。
  たとえば、この文庫本の17ペイジに<「あたしたちはいったい何なのよ。あちこちの警察をまわって歩く移動外科病院じゃあるまいし」と、ウエストは言いつのった。「ばっかみたい。時間の無駄もいいとこだわ。こんな不毛なことをやるのはじめてよ」>というところがあります。
  意味が分かりますか?そんなものが仮にあるとしても、自分たちが「警察をまわって歩く移動外科病院」のようだと何故に「ばっかみたい」なのでしょうか?この訳では説明されていませんよね。
  「合理的な疑い」の日英両語を比較したときの経験から言いますと、こんなふうに日本語自体があいまいだったり、意味を成さないような個所は(翻訳者自身も気づいている可能性が高いのですが)まず例外なく、手抜き訳か誤訳になっています。
  英語の方はこうなっています。
  "Like we're some kind of MASH unit for police departments," she added. "Who are we kidding? What a waste of time. I don't remember when I've wasted so much time."
  SHEというのは、“警察行政改革人”ジュディー・ハマーに、一年間の請負仕事だからということで、元恋人のアンディー・ブラジル巡査とともにノースカロライナ州のシャーロット市からヴァジーニア州リッチモンド市の警察本部に連れてこられているハマーの補佐官ヴァジーニア・ウェストのことです。リッチモンドでの仕事と暮らしが彼女にはなかなか好きになれないようです。
  さて、ここで「移動外科病院」と訳されているのは「MASH」という言葉です。「移動外科病院」というのは、当たらずとも遠からず、と言えないこともないかもしれませんが、この本が出版された1990年代の後半に大半のアメリカの読者が「MASH」と聞けばすぐに思い出すのは1970年代に大ヒットした同名のTVシリーズだったに違いありません(日本でも放送されました)。ですから、そのことを完全に無視したままの訳でいいのかどうか…。無視したままというのは、つまり、言葉は悪いのですが、やはり、手抜きなのではないか…。
  テレヴィ・シリーズのタイトル、MASHというのは、朝鮮戦争中の米陸軍移動野戦外科病院を指しています(Mobile Army Surgical Hospital)。シリーズの内容は、その野戦外科病院の医者たちが繰り広げる大人の、ひねりが効いたコメディーでした。ただの「移動外科病院」では、その辺りの(アメリカ人には了解できている)事情が日本の読者にまったく伝わりませんし、ウエストのぼやきの理由も分かりません。
  ここの英語文を日本の読者にも理解してもらうためには、たとえば…
  <「あたしたちって(あちこちの警察を渡り歩いて、そこが抱えている傷を治そうとしているんだから)あのテレヴィ・シリーズ"MASH"の陸軍野戦外科病院の軍医たちの警察版みたいなものよね」と彼女は言い足した>とでもするべきだと思われます。
  そこにつづく「ばっかみたい」という訳にも問題があります。原文は"Who were we kidding?"となっています。シリーズの中では、この野戦病院の外科医たちが患者や将校たちをからかう場面が続出します。そこがとにかく笑えるのです。このショウが高い視聴率をあげていたのはその笑いがあったからです。ですから、"Who were we kidding?"というのはその“からかい”を受けた言葉なのだと解釈するのが正しいと思われます。つまり、ウエストは「ドラマの中のあの外科医たちには、少なくとも、仲間の医者や将兵などといった他人をからかうという楽しみがあったのに、(警察を渡り歩いていまリッチモンドに来ている)このわたしたちには(ここの既成勢力に改革をじゃまされるばかりで)それもないじゃない」というぐあいにぼやいているのです。原文の読者はそういうふうに受け取ったはずです。「ばっかみたい」ではそこのところが日本の読者に伝わりません。
  もちろん、プロの翻訳家は常に時間に追われて仕事をしているに違いありません。締切日に間に合わせて初めてプロとして認められるのでしょう。原文のすべての言葉を調べ上げて訳をするゆとりはないに等しいのだろうと思います。
  しかし、原文の中で翻訳者に分からない個所は、それをそのまま日本語で読む読者にはもっと理解できません。
  翻訳というのは、素人がその出来、質を判断することが、たとえば工業製品や食品などの何倍も難しいものなのでは?つまり、ほかのどんな“製品・商品”よりも生産者=翻訳家の良心が問われる仕事なのでは?
  翻訳家には常に「翻訳とは難しいものだ」ということを頭において、できるだけ丁寧な、きめ細かい仕事をしてもらいたいものだ、と改めて感じています。
          *          *
  もう一点、こちらもテレヴィが関わるところで…。
  文庫本「サザンクロス」の283ペイジに「手工具の数の多さは、ボブ・ヴィラの作業場にもまさると思われるほどだ」という個所があります。ここでは「ボブ・ヴィラ」という人物が何者であるかが分からないと、何のことだかよくは分かりません。イメッジがわいてきません。
  ボブ・ヴィラというのはアメリカで最も名と顔を知られた“ホーム・インプルーヴメント”(自分でやる自宅改良工事)の権威・人気者で、そのテレヴィショウは彼の作業場からの中継という形になっていますから、多くのアメリカ人はそこにどんな工具がどれぐらい揃っているかをだいたい知っているのです。
  この小説が翻訳されたのは1998年だと思われます。とうに、インターネット時代に入っていました。だれにでも簡単に検索ができるようになっていたわけですね。ほんのちょっと時間をかけて訳者が検索しておけばBob Vilaがどういう人物なのかはすぐにも判明していたはずです。
  せめて「テレヴィの“ホーム・インプルーヴメント”ショウのホスト、ボブ・ヴィラの…」ぐらいにでも訳されていれば、日本の読者にはいくらかは分かりやすくなっていただろうと思います。
  翻訳家のみなさん、インターネット検索の普及で、手抜き訳には昔よりは厳しい目が向けられる時代になっています。
          *          *
  第31回 改題再掲載 翻訳はホントウニ難しい!! (1) http://d.hatena.ne.jp/kugen/20081204/1228353415
  第32回 改題再掲載 翻訳はホントウニ難しい!! (2) http://d.hatena.ne.jp/kugen/20081205/1228437531
  第33回 改題再掲載 翻訳はホントウニ難しい!! (3) http://d.hatena.ne.jp/kugen/20081206/1228539414
  第34回 改題再掲載 翻訳はホントウニ難しい!! (4) http://d.hatena.ne.jp/kugen/20081207

再掲載:2010-07-22 第165回 それでも誤訳は避けられない

 

  福岡の兄の本棚に翻訳本「12番目のカード」ジェフリー・ディーヴァー池田真紀子訳 文芸春秋社)があるのを見つけ、兄の許しを得てマニラに持ち帰りました。昨年の秋のことです。「12番目のカード」は含まれていなかったのですが、この作家の小説は以前にペイパーバックで何冊か読んでいたもので("THE DEVIL'S TEARDROP" "THE STONE MONKEY" "THE VANISHED MAN"など)親しみもあって、<日本語訳ではどうなっているのだろう?>という興味がわいたからでした。
  いえ、正直に言いますと、翻訳本については以前にすこぶる劣悪なものに出合ったことがあったことも動機になっていました。<これはどうなんだろう?><ちゃんと訳されているんだろうか?>
  *http://d.hatena.ne.jp/kugen/20081204/1228353415
  *http://d.hatena.ne.jp/kugen/20081205/1228437531
  *http://d.hatena.ne.jp/kugen/20081206/1228539414
  *http://d.hatena.ne.jp/kugen/20081207/1228610086


  +


  嬉しかったことには、日本語訳を一度だけ読み通したところでは<まさかそんな!>というような、格別におかしな個所には行き当たりませんでした。つまり、大きな誤訳はなさそうだったということです。というより、犯罪の秘密を科学的な推理と捜査で解き明かしていくところが“売り”になっているこの小説には、専門語があふれているし、略語や俗語も数多く使用されていますから、その日本語訳は容易ではないと思われるのですが、できあがり具合は“なかなかのもの”になっているようでした。
  +
  さて、マカティ市内の古本屋で先日、この小説の英語版ペイパーバック(POCKET STAR BOOKS)を買い求めました。
  英語版を読んだあとの感想も、池田氏の日本語訳はおおむね“優”と評されていいようだ、というものでした。いえ、わたし自身はほとんど翻訳本を読みませんから、ほかとの幅広い比較はできませんが、池田氏の翻訳力は<標準以上>のものではないかと思ったのです。
  英語版と読み比べて<間違い>あるいは<拙訳>だと感じたのは、たとえば、つぎのような個所にとどまりました。ストーリーの展開を歪めるほどのものではありません。
  −
  <築年数のたった建物も修繕が行き届いている。車のステアリングホイールはやはり盗難防止のバーで固定されているかもしれないが、鉄格子で守られた自家用車のなかには、<レクサス>や<BMW>の高級車も見えた>(105ペイジ)
  この部分の英語版は−−
  The rows of old buildings were in good repair. The cars may have sported Club on the steering wheels but the vehicles the steel bars protected included Lexuses and Beemers.(P108)
  上の日本語訳の中でよく分からないのは<鉄格子で守られた>です。
  さて、Clubは<盗難防止のバー>と正しく訳されています。これは、日本の時代劇で見る<十手>を太く強くしたような鋼鉄製の器具で、1990年代半ばごろから、この小説の舞台であるニューヨーク市ハーレムのような自動車の盗難が多い地区だけではなく、全米で広く使われ始めていました。窃盗者が車に侵入してエンジンをかけても、このClubがハンドル=ステアリングホイールにつけてあれば、それが邪魔になって運転ができないわけです。
  つまり、ここで<鉄格子>と訳されたthe steel barsというのは、実はこのClubのことなのです。
  ですから、ここで言われているのは−−
  <建物も修繕が行き届いている>ことからも推察できるように、ハーレムのこの一角は、ほかと比較すれば裕福な住人が多く、治安も悪くはなくて、盗まれまいとClubをつけた自動車もあるにはあるが、つけた車の中には(ハーレムのほかの地域ではあまり見られない高級車である)<レクサス>や<BMW>も含まれている−−ということです。
  <鉄格子で守られた自家用車>などというおかしなものはここにはないのです。the steel barsがClubのことだと分かっていれば、唐突に<鉄格子>が出てくることはなかったはずです。
  −
  このClubに関しては、もう一個所でおかしな訳が見られます(146ペイジ)。
  昔の日本では、子どもたちが「お前の母さん出べそ」などと、たがいにひどいことを言い合ったりしたものですが、ハーレムの若者たちのあいだにも<スナッピング>と呼ばれる、似たような“遊び”があるそうです。
  英語文ではこんな例が挙げられています。
  Yo' mama so fat her blood type is Ragu, Yo' Chevy so old they stole the Club and left the car.(P149)
  日本語訳は−−
  “あんたのママはデブ、血液型は<ラグー>(スパゲティソースの商品名)”“あんたの<シェヴィ>はおんぼろ、泥棒だって店は盗んでも車は盗まない(<シェヴィ>という名のレストランチェーンがある)”(146ペイジ)。

 

  <シェヴィ>という名のレストランチェーンがある、という事実をわたしは知りません。
  ここで問題なのはthe Clubがまったく無視されていることです。無視したために、英語にはない<レストランチェーン>まで持ち出すことになってしまったということです。
  まず<シェヴィ>というのはジェネラル・モーターズが販売している“低級車”です。the Clubというのは、あのthe steel barsのことです。
  つまり、ここでは「あんたの車は低級車の<シェヴィ>で、しかもおんぼろ。車を盗まれないようにとクラブをつけているが、あんたの車にはクラブほどの値打ちさえないから、泥棒は(40〜50ドルほどで買うことができる)クラブは盗んでいっても車は置いていく」と相手をばかにする、と言っているわけです。
  完全な誤訳ですね。
  +
  優秀だと見える翻訳にも上のような間違いが起こりえます。
  翻訳というのは、ほんとうに、難しい仕事です。
  ***
  ところで、これは翻訳とは関係のないことですが−−
  英語版にも日本語版にも、その表紙には「12番目のタロットカード」が描かれています。いずれも、絞首刑台の梁ようなものから一人の男が逆さに吊り下げられている構図ですが、英語版では二本の脚が、日本語版では一本の脚が縛られています。常識的には、英語版の方が原文に忠実な絵になっているだろうと考えるところですが、わたしが気づいた限りでは、縛られた脚は一本(LEGSではなくてLEG)だと書かれていました。日本語版の表紙の絵の方が正しいわけですね。

転載: 加州毎日新聞「時事往来」 --1988年4月22日-- 眠り下手

 

=加州毎日新聞は1931年から1992年までロサンジェルスで発行された日系新聞です=

         +

  ますます眠りが下手になってきている。
  寝つきだけはまだ悪くないことを頼りに、体の底に少しずつ蓄積していっているはずの睡眠不足はとりあえずは気にしないことにしているが、この頃は寝ついてから二時間もしないうちにもう目が覚める。小一時間が過ぎて再び眠りに落ちたかと思うと、二時間後にはまた目を覚ましてしまう−−。
  ほとんど毎夜こんな調子だから始末が悪い。夜中から朝方にかけて三度、四度と目覚める眠りはことさら珍しいものではないかもしれないが、目覚めるたびに、ほんの短い間とはいえ、頭がいったん冴えざえとしてしまうのが、いささか辛い。

  覚めたがる脳を騙す道具は相変わらずラジオだ。
  だが、すぐにも眠りに戻りたい−−現実の、あるいは、昼間の記憶の断片などが頭の隅に蘇ってこれ以上眠りを妨げないうちにもう一度眠りたい−−と祈る気持ちでつけるラジオの番組が、この頃なぜか以前とは違ってきた。
  ニュース専門のAM局にダイアルを合わせることが多くなったのだ。
  甘い、優しげな曲ばかりを流してくれるKBIGもKLITEも最近はどうもいけない。だからといって、ロックやカントリーが眠りを誘ってくれるとも思えない。
  ジャズは、理屈以前の好き嫌いがあるらしく、当たり外れが大きい。たちまち眠れる曲もあれば、かえってすっかり目覚めてしまう曲もある。
  ここでいう<眠れる曲・目覚めてしまう曲>の違いには、もちろん、何の基準もない。音楽としていいか悪いかも無関係だ。眠りたがる頭に“非現実的”に聞こえればそれがいい曲だ。

  よりよい眠りを求めてくり返した試行錯誤の末にやっと辿り着いたところがニュース専門局だった、というのは奇妙な話だ。−−AM98が“非現実的”なニュースを流しているはずはないからだ。
  たとえば、今朝未明の放送では、西独フランクフルトでの、サウディアラビア航空オフィスへの爆弾テロ事件がくり返して報じられていたはずだ。−−生々しい“現実”の報道だ。
  数日前には、電話回線の向こうから訛りの強い英語が、ナポリの米軍クラブ爆破事件の模様を報告していた。オクダイラという名も、レッド・アーミーという単語もちゃんと耳に入っていた。−−これまた、すこぶる“現実的”なニュースだった。
  ほかにも、季節外れに冷え込んだ朝は、ハリウッドの気温が、たとえば、四八度だと知らせてくれる、地震の際には震源地と震度、被害の状況をただちに伝えてくれる。−−ニュース専門局が送ってくるのはいつも、“現実”そのものなのだ。

  なのに、いつの間にか、夜通しニュース・ラジオをつけっぱなしにしておくようになった。
  起こったばかり、あるいは起こりつつある現実が、自分の中の取るに足りない現実を片っ端から古く陳腐なものにしてしまい、ついには意識の底から払拭してくれて、頭を眠りに戻してくれるのかもしれない。
  たしかに、この世界で起こっている−−ニュースとして報道されている−−さまざまな出来事と比べれば、自分の周りの現実は、夜の眠りの間にまで気にかけなければならないほど値打ちのあるものではないのかもしれない。
  時々刻々と移り変わる現実を絶えず報じつづけるラジオ放送を聴きながら眠る−−。なるほど、悪い“療法”ではないかもしれない。
  いや、いや、それにして、実に不器用な眠りだ。