第89回 <苦言熟考> ほとんど“死語”になった「叱る」「叱られる」 2008/07/18 閲覧(252)

毎日新聞(インターネット 2008年7月17日)によると−

  <愛知県の東名高速道路で起きた高速バス乗っ取り事件で、監禁と銃刀法違反容疑で逮捕された山口県宇部市の中学2年の少年(14)が県警の調べに対し><両親から女子生徒との交友について注意を受けた際、「お前なんか死んでしまえ」「児童相談所に行け」などと激しく 怒られた と供述している>そうですね。
  
  朝日新聞(インターネット 2008年7月17日)は−

  <県警の調べに「男女交際に絡んで友人から借金をして、それを親に知られて厳しく しかられた ので、嫌がらせのためにやった」と話しているという>と書いてます。

  さて、朝日新聞が報じたとおりに、この少年が「 しかられた 」という言葉を使ったとすれば、これは“近年まれな”出来事と言えます。
  というのは−

  テレヴィでニュースやドゥラマを見たり新聞記事を読んだりしている限り、いまの日本では、初めの引用にある<激しく 怒られた >の「怒られる」という表現ばかりが使われ、「叱られる」という言い方がほとんど駆逐された状態になっているからです。
  日本ではもう<たとえば、親や教師が子供たちを、先輩が後輩を叱る ことはないのか>といぶかるほど「怒る」「怒られる」がのさばっています。
  そう感じたことはありませんか?

  なぜそんなことが気になるかと言えば−

  辞典をひけば、例えば、現代国語例解辞典小学館)にも新潮国語辞典(新潮社)にも「怒る」の欄に二番目の意味として「叱る」が挙げられていますが、これは現実社会での慣用を追認したもので、【怒る】の本来の意味は、あくまでも、①腹を立てる②興奮して気が荒くなる(小学館)−です。

  一方、【叱る】には「良くない点をとがめ、いましめる」(小学館)という意味があります。
  違いは明白ですね。

  どんな状況においても「怒る」「怒られる」を使ったのでは、「叱る」から読み取ることができる<叱る側が持っているはずの“何が良くて何が悪いかを知り、見分ける”良識・見識>などがその“文脈”からすっかり欠落してしまうのです。

  その意味では<「お前なんか死んでしまえ」「児童相談所に行け」などと激しく 怒られた >と書いた毎日新聞は「叱る」と「怒る」の違いをちゃんとわきまえていたと言えますね。
  <「お前なんか死んでしまえ」>という言葉からは十分な“良識・見識”は感じられませんから。

  ただ、はたしてこの記事どおりに、この少年自身が新聞社なみの知識を持ち合わせていて「怒る」と「叱る」を正しく使い分けて供述したかどうか−。
  「怒る」一辺倒のいまの言語状況を見る限り、使い分けた可能性は小さいのではないでしょうか。興味深いところです。

  「怒る」「怒られる」に押されて「叱る」「叱られる」が使われなくなったのはなぜか。
  その事情を推察するのは、どちらかと言えば、容易です。
  「叱る」側が叱るだけの自信を持ち合わせなくなる一方で、「叱られる」側が叱る側の“良識・見識”=“権威”を認めなくなってきているからです。

  仮に「叱る」側が、言葉の本来の意味で叱っても、「叱られる」側は「怒られた」=ただ腹を立てられ、興奮して気を荒立てられた=と受け取るようになってきているからです。

  「叱る」「叱られる」の衰退は、社会的な精神構造の変化をそのまま反映しているようです。

  「良くない点をとがめ、いましめる」ことがだれにもできない社会は病んでいるとしか言えません。
  この病は治さなければなりません。
  治すためにはまず、この二つの言葉を正しく使い分けることから始めなければなりません。

  新聞社やテレヴィ局には大きい役割を担ってもらいたいものです。