第341回 「辞典機能」を果たさない報道機関

  前回の【第340回 この“ANNOUNCE”はどう訳す?】にこう書いていました。
  <自分には分かっていると思い込んで、あるいは、その気になって、安易に翻訳するのは危険だ、ということですよね。「おや?」と感じるところがあったら、辞典で調べてみるぐらいの初歩的な手順は必ず踏むべきだ、ということですよね。いや、その前に、「おや?」と感じるだけの情報・理解力・常識などを身につけておかなければならない、ということですよね> <いやいや、翻訳の際と限られたことではありません。先入観に邪魔されることなく、身の回りにある情報を正しく理解するのは、それが何であるにしろ、難しいものです。常に十分に心しておきたいところです>
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  そうではありますが……。
  それ以前の問題として、<「おや?」と感じるだけの情報・理解力・常識など>を身につけるにはどうすればいいのだろうか、と思いませんでしたか?
  前回の例のように、翻訳された小説の場合だったら、その語が使われている文脈から、ある程度は自然に、「ここは日本語として変だ」「ここの日本語は稚拙すぎる」「ベストセラーを連発している作家がこんな脈絡がないことを書くだろうか」などと感じることもありますよね。たとえば、ほら、<問題は“announced”です。そこを訳者は「声高に告げられる」としています><…そんなばかな!来訪者があるたびに「XXさん、ご来社!」などと声高に告げる会社がどこかにありますか?まして、ここは法律事務所なのですよ>という具合に。
  しかし、そうはいっても、アメリカの大手の法律事務所がどのようなシステムで来客を迎えるかにまったく無知であれば「…そんなばかな!」と感じることはありませんよね。つまり、そう感じるためには、やはり、ある程度の常識はどこからか入手して、持ち合わせていなければならないということになりますよね。
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  その「ある程度の常識」を欠いていたからこんな失態を演じることになった、という例を「苦言熟考」は【第286回 再び「確信犯」の誤用について】(http://d.hatena.ne.jp/kugen/20130820/1376949852)で紹介していました。「確信犯」という言葉の使い方について触れながら。
  <日本の報道機関はいったいどうなってしまったのでしょう?正しく言葉をつかうことには関心がなくなってしまったようですよ><関心をなくしてしまって、自らの言論・報道活動の際に言葉=日本語を正しく使っているかどうかを検証するシステムを内部に持っていないことにさえ、新聞社やテレヴィ局は無頓着であるように見えます。これは実に大きな問題ですよ><だって、個々の言葉について軽々しく考える頭で、日本の、世界の、複雑で難しい状況・事情が正しく理解できますか?正しい言論・報道活動ができますか?>
  東京新聞佐藤次郎という記者がこう書いていました。<多くの競技者がいわば「確信犯」であるのを示している><薬物検査は飛躍的に厳しく精密になったが、薬物やその使用を隠す方法も進化している。負の循環。一部の選手はためらいも罪悪感もなく、発覚の可能性も承知したうえで、当然のように禁止薬物を使っているように見える>
  ここでは「確信犯」という語が典型的な形で間違って使われています。東京新聞内には「おや?」と思う人物がいなかったのですね。だから、誰一人として辞書・辞典などで調べてみなかったのですね。
  「苦言熟考」の【第212回 正しく使われなくなった「確信犯」】(http://d.hatena.ne.jp/kugen/20110901/1314835378)はこう指摘しています。
  #「はてなキーワード」は<自らの信念に基づいて、それが社会の規範、道徳に反していると判っていても、正しいと思う行為を行うこと。思想犯・政治犯・国事犯など>としています。
  #「goo辞書」には<道徳的、宗教的または政治的信念に基づき、本人が悪いことでないと確信してなされる犯罪。思想犯・政治犯・国事犯など>との説明があります。
  <ためらいも罪悪感もなく、発覚の可能性も承知したうえで>と<本人が悪いことでないと確信してなされる犯罪>あるいは<それが社会の規範、道徳に反していると判っていても、正しいと思う行為を行うこと>とでは意味がまったく違います。
  一部のスポーツ選手が薬物を使用するのは、「いまは禁止されているが、使用することの方に“正義”がある」「これからは、薬物使用を全面的に合法としなければならない」などと“確信”しているからではないでしょう?
  「思想犯・政治犯・国事犯」と同様に扱わなければならないような正義感を彼らが持っていると思えますか?
  <ためらいも罪悪感もなく、発覚の可能性も承知したうえで>薬物を競技者が使用するのは、自分だけの利益・成績向上のためにズルしてやろう、と思っているからにすぎないわけでしょう?
  辞書・辞典などで調べていれば、そういうのは「確信犯」ではないのだ、ということがすぐに分かったのに。
  ほかの新聞と比較していえば“良質”だと思える東京新聞ですら、自己点検は十分にはなされていないのです。
  「おや?」と感じるのはそれほど難しいことだ、ということですよね。
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  「苦言熟考」【第212回】の中で、「ニコニコ大百科」が「ある電器店員が映りの悪いテレビの調整を依頼された場合」という設定でこう解説していることを紹介しました。
  #「このテレビを壊せば客は新しいテレビを買ってくれる」と考え、わざと間違った修理を行い、テレビを壊した → このケースは「故意犯
  #「テレビは社会的に害悪なものであり、この世に存在してはいけない」との信念のもと、テレビを破壊した → これが本来の意味での「確信犯
  つまり、薬物を使用するスポーツ選手は、思想犯・政治犯・国事犯などがそうであるような、“正義”を判断の軸に据えた「確信犯」ではなく、「このテレビを壊せば客は新しいテレビを買ってくれる」と自分の利益だけを考えた電気店員と変わりがない「故意犯」に当たりますよね。
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  世の中のある事柄については、上に示したように、辞書や辞典などで調べてみれば、大方のところでは、それを正しく理解することができそうですが、さて、政治の世界についてはどうでしょう?
  わたしたちは十分に「おや?」と感じているのでしょうか?
  「おや?」と感じたとしても、その際に、めまぐるしく動く、暗室での駆け引きが渦巻く、嘘にまみれた政治の世界で使用される言葉・言語を正しく理解するための“辞書や辞典”をわたしたちは持っているのでしょうか?
  正しく理解するための辞書・辞典の役割を報道機関が曲がりなりにも果たしていた時期がありました。この事柄についてはこうも理解できる、ああも理解できると、多方面から多様に報じることで、報道機関は全体としてはその存在意義を保っていました。
  ところが、いまは……。全体としての報道機関から“多様性”が失われています。
  いくらかの例外がありはしますが、報道機関は全体としては、政権による発表を画一的にたれ流すだけの役割しか果たしていません。端的には、自らを“最高権力者”だと位置づけて、強権的に政治を進める首相の言いなりに大方の報道機関がなりきるという形で……。虚偽・誤謬に満ちた大本営発表をそのまま国民に向かって喧伝しつづけた“戦中”の報道機関がそうであったように……。
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  控えめにいっても、昨今の報道機関は良質の辞書・辞典とおなじ役割を果たしてはいません。国民が何かを判断・理解する際に必要な情報を多様かつ客観的には提供していません。
  客観的に提供していないだけにとどまらず、間違った情報を報道機関が、特定の誰か=時の権力を利するために「故意犯」として提供している恐れさえあります。そうであれば、国民が置かれている事態はすこぶる深刻であると言わなければなりません。……本来持っているべき「辞書・辞典機能」を捨てることで、国民を愚昧なところに押し込めておくことさえ報道機関はできるのですから。国民を時の権力の言いなりにしておくことさえできるのですから。
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  日本はいま、実に危険な状況になっています。
  政府・軍部に迎合して国民を無残な戦争へと駆り立てたという過去の事実と責任を報道機関に忘れさせてはなりません。
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  “偏向記事”は、たとえば、こういうふうにもつくられます−−
  参考記事:近藤駿介「BLOGOS」2015年03月22日 「一面トップ vs 38面ベタ記事」が示唆する「大企業の、大企業による、大企業のための報道」
  <「社長100人アンケート」によって7割の企業経営者が「景気拡大」を感じており、「悪化」していると回答した経営者がいなかったことがグラフ付で、一面トップで大きく報じられているのに対して、「景気」が昨年から悪い方向に向かっているとした回答が3割に達したのと同時に、良い方向に向かっているとの回答が昨年から11.6ポイント低下し、ほぼ半減の10.4%にとどまったことが示された1万人を対象として行った世論調査(有効回答数6,059人)結果は、38面のベタ記事扱いでした><消費者が客観的情報を得られるよう、せめて二つの記事を並べて掲載する程度の配慮はして欲しかったと思います。一般国民は、こうした現実をよく踏まえて上で新聞を読まなければ洗脳されてしまう危険があることを認識すると同時に、マスコミには消費者が客観的な情報を得ることが出来るような紙面作りに努めて貰いたいものです
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  〔参考ブログ〕
  【大手新聞やテレビキー局の上層部「メシ友」の実態――安倍内閣を支えるメディア】(http://blogos.com/article/108565/) 
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