第235回 芸術を生む心

  芸術というものがうまく理解できなくなったのは、ふつうなら、これからそれが本当に分かるようになる頃と思われる、二十歳代前半のことでした。友人から、彼の知人である詩人が「試合に勝とうというのでヒロポンを使うボクサーがいるそうだが、それでいい詩が書けるんだったら、俺もヒロポンをやってもいい、と思う」と語っている、という話を聞いたことが始まりでした。
  いえ、芸術家がその作品にかける思いの深さにいくらかは感動したのですよ。ですが…。
  その道を突き進めばその詩人の生がどうなっていくかを想像するのは難しいことではありませんでした。社会的な存在としては破滅する生。家族があれば家族の、親しい友人がいれば親しい友人の心を傷つけ、悲しませたあとに残った作品。それがどれほど優れたものであろうと、どれほど高い評価を受けようと、身近な人たちを、幸せにできないどころか、不幸してしまうのでは、何の価値もないのではないか。
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  2006年に95歳で他界した父は、戦後には、佐賀県の職業安定課で課長まで務めたあと、労働省の地方事務官(失業保険審査官)に取り立てられ、そのまま定年まで公務員ひと筋の人生を送った人でした。
  その父は、生地である佐賀では、創作民謡の作家としても知られていたようです。1931(昭和6)年、父が20歳のときに、その作品「佐賀行進曲」が藤山一郎を歌手としてレコードになりましたし(http://www.suteaku.com/Channel_9/)、その後も長く、佐賀県文学賞の詩・民謡の部の審査員を務めたりしたからでした。
  父には「層雲」派の自由律俳句の俳人という顔もありました。1932(昭和7)年に佐賀で、先輩たちとともに「菱の会」を創設して始めた創作活動を、戦後もずっと「窓の会」を足場にしてつづけましたし、そのことも評価されて、晩年には「層雲」で「長老」扱いも受けていました。
  父の作品はよく読んだだけではなく、しばしばその感想を父に語りもしました。この点では、わたしは、父親の趣味、いや、芸術活動をよく理解する、いい孝行息子であったはずです。いえ、孝行するつもりで読んでいたのではありません。読むに耐えうる作品を父は創作しつづけていたのです。けっして世辞ではありません。
  若いころ、といっても、おそらく、60歳ごろまでは、世の一風景を鋭利に切り取った作品が多いようでしたが、その後は心象風景を詠む句が増えました。老齢期の一日の終え方を見据えた「こころの襞ていねいにたたんで眠るとする」や、先立った妻を思う「いつ死んでも待たせたねと行くところがある」などはなかなかの秀作だと思います。
  ええ、そうは思うのですが…。自由律俳句が立派な芸術であり、父にはそれなりの才能があったと決めつけていいますと、芸術というのは、やはり、理解するのに実にやっかいな代物です。いまでもそう思わずにはいられません。
  なぜといって…。日ごろ見知っていた父の姿、実像と、父が生んだ数々の秀句とがうまくつながらないのです。取り立てて心優しくもなかった人から、上の二句のような作品が生まれる…。
  わたしの鑑賞・批評力を高く評価していた父は、「窓の会」の準会員としてお前も句を詠まないか、と何度もわたしを誘いました。準会員になるかどうかはあいまいにしたままで自作を父に送ったこともあります。しかし、結局は本気にはなれませんでした。いい作品を生み出すための“決意”が自分にあるとはどうしても思えなかったのです。ヒロポンであろうと何であろうと、何らかの薬物に染まる気にも、自分の心を無理に優しく作り上げる気にもなれなかったわけです。
  あえていいますと、超日常の世界は俺が住むところではない、というように感じていたと思います。