分かれ目は、結局のところは「ビートルズを受け入れるかどうか」にあったような気がします。
ビートルズが台頭してくる前には、ポール・アンカもニール・セダカも、いえ、エルヴィス・プレスリーだって聞いたのですよ。聞いただけではなく、ラディオから流れてくる彼らの曲に合わせて、それが正しい歌詞であるかどうかは深く考えもせずに、“カタカナ英語”で歌ったりもしていました。
年齢の上下やデビューの早晩に拘らずに名を挙げると、男性では、山下敬二郎、平尾昌章、ミッキー・カーティス、飯田久彦、尾藤イサオ、女性ではザ・ピーナツ、中尾ミエ、伊東ゆかり、森山加代子などの、日本人の若い歌手たちが日本語で歌うアメリカン・ポップスは、わたしの耳にもずいぶん新鮮に聞こえましたし、いかにも“外国もの”という感じが魅力的でもありました。声量で他を圧していた弘田三枝子が“爆唱”する歌を特に好んだりもしていました。
その時代よりもうんと前のこととなると…。
ある日のことです。何の前触れも予告もなしに母が一枚のレコードを、低学年の小学生だったわたしに買ってきました。「あんたは歌が上手だから、こんなものも歌えるのではないかと思ったものでね」。アラン・ラッドが主演した西部劇「シェーン」の主題歌を雪村いずみが日本語で歌った「遥かなる山の呼び声」(1953年=昭和28年)でした。わたしが7〜8歳のころです。
佐賀県庁の公務員だった父はどちらかというと“新しい物”好きで、我が家にデンチク(電気蓄音機)が入ったのは(それでラディオ・ドラマ「笛吹き童子」や「紅孔雀」を聴いていたという記憶がありますから)地方の家庭としては早い方だったはずなのですが、「遥かなる山の呼び声」をそのデンチクで聴いたかどうかについては覚えていません。しかし、この一件で、わたしに、そうですね、“童謡離れ”が起こったことは間違いありません。いつも「みかんの花咲く丘」を歌っている子ではなくなったのです。
わたしの「ポップス」との縁はそんなふうに始まったわけですね。それからは、美空ひばりの「悲しき口笛」や「リンゴ追分」「越後獅子の唄」「私は街の子」などに加えて、雪村いずみの「オー・マイ・パパ」も「青いカナリア」も、江利チエミの「テネシー・ワルツ」も聞く子になりましたし、そういう歌の一部を口ずさんだりもしていたわけです。
ですが、さて、事が「歌ったり」ということになると、その主流はやはり、いわゆる、歌謡曲でした。
佐賀市内の真ん中、佐賀城址の中にあった赤松小学校からの下校途中で(「ゲンヤダナー」の意味が分からないままで)「お富さん」や(歌詞がなんだかおもしろいというので)「トンコ節」、さらには戦前の(<空にゃ今日もアドバルーン…>の)「ああそれなのに」などといったリズムがいい曲を(たぶんクラスメイトと一緒に)歌っていた時期がありましたし、NHKの「素人のど自慢」で聴いた「イヨマンテの夜」「長崎の鐘」「黒百合の唄」「森の水車」「湯の町エレジー」「青い山脈」「高原列車は行く」(あとでフィリピンでもはやったという)「ここに幸あれ」「上海帰りのリル」「落ち葉しぐれ」などは、いつの間にか、わたしの“愛唱歌”になっていたりもしました。
そうそう、佐賀市内の中心部にあった映画館、ヘイゲキ(平和劇場)で灰田勝彦がショウをやったときには、親か叔母かに連れられて見に行きましたよ。野球好きだったこの歌手が「野球小僧」を歌いながら、華麗なフォームで、ステイジからいくつものボールを客たちに向かって投げたときの客席の盛り上がりぶりはいまでもよく覚えています。娯楽というものの幅がいまほど広くなかった昭和二十年代(1945年〜54年)には、たぶん、歌謡曲というのは小学生にもけっこう近いものだったのですね。
ついでにいえば、昭和三十年代の半ばごろまでは、おとなたちが私的な宴会などでよく軍歌や戦時歌謡を歌っていましたので「異国の丘」「誰か故郷を思わざる」「ラバウル小唄」なども自然に覚えてしまったものです。
さて、次の時代がやって来て…。春日八郎、三橋美智也、石原裕次郎、小林旭などが立てつづけにヒット曲を出すようになったころからは、月刊「平凡」の付録の歌詞ブックを見て歌を覚えるようになりました。民放ラディオに歌謡(リクゥスト)番組が増えたころではなかったでしょうか。ある歌謡評論家が「(「錆びたナイフ」などがそうであったように)歌声にエコーをかけてごまかしている石原裕次郎よりは、声の通りがいい小林旭の方が長つづきする歌手になるだろう」と予言していたのもそんな番組の中でのことでした。
というぐあいに、わたしは、いわゆる「ポップス」が嫌いだったわけではなかったし、やがてテレヴィが普及するとクレージキャッツがホストを務めたポップス番組「シャボン玉ホリデー」もよく見たのですが、それでも、どちらかというと、歌といえば歌謡曲、という環境の中で十代の後半を迎えていたわけですね。
そこに出現してきたのがビートルズでした。
友人や知人の中には、このイギリス人のロックグループの魅力に打ちのめされる者が出始めたようでした。ラディオの深夜放送などでもビートルズ(やローリング・ストーンなど)の曲が流されることが多くなりました。
言うまでもなく、わたしも聴いてはみたのですよ。積極的に拒むようなこともしなかったのですよ。
ですが、ビートルズが好きにはなれませんでした。彼らが日本でコンサートを開いたときには、多くの若者が熱狂したというのに、わたしが興奮するようなことはありませんでした。
なぜだったかというと…。
振り返って考えてみますと、初期のビートルズは、当然のことながら英語で、それも、多くを速いテンポの英語で、歌っていましたし、彼らの曲には、ポール・アンカなどの場合と異なって(日本の歌手が歌う)日本語ヴァージョンがありませんでした。エルヴィス・プレスリーなどにはあった、カタカナ英語で一緒に歌うことができる、ゆったりとしたバラードがそのレパートリーには含まれていないようでした。
ビートルズの曲の中には、要するに、わたしが歌えるものがなかったのです。
大学受験が近づいてきていました。わたしはしだいに「ポップス」から離れて行きました。1963年の1月にはビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」が、6月には舟木一夫の「高校三年生」が発売されましたが、わたしが歌ったのは「高校三年生」の方だけでした。ビートルズのこの大ヒット曲を口ずさんだことは一度もありませんでした。
成人してからしばらく経ったころには日本中がカラオケ・ブームに包まれていました。歌唱力に自信があるカラオケ好きが、スロー・バラードのスタンダード曲、たとえば、フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」やトニー・ベネットの「霧のサンフランシスコ」を英語で歌うことも珍しくなくなっていました。しかし、そういう曲ですら、わたしの<歌える歌>のリストには加わりませんでした。
ビートルズから“耳”を逸らせたわたしは、そのころまでに、まあ、純粋の“歌謡曲好き”になっていたわけですね。
そう思い込んでいたのですが…。
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マニラのケイブルテレヴィで見られる歌謡番組が二つあります。ともにNHKのもので、一つは「歌謡コンサート」、他の一つは「BS日本の歌」です。その「歌謡コンサート」の方に先日、川中美幸が出演していました。歌ったのは「遣らずの雨」。
いえ、実をいえば、わたしはこのとき、川中美幸が歌うところを見ていません。「遣らずの雨」はそれまでに何回となく聴いていていた曲だったのに、このときに初めて、ふと<ところで「遣らずの雨」ってどんな雨?>と自問してしまったからです。
思えば、それまでは、この曲をなんとなく耳にしていただけだったのですね。タイトルの本当の意味さえ知ろうとしたことがなかったのですね。わたしは“その程度”の“歌謡曲好き”になっていたのですね。
歌を聴かずに、辞典を引くことにしました。
【新潮国語辞典】「遣らずの雨」 来客を帰さないためや、別離しにくい人を出かけさせないためであるかのように、降ってくる雨
なるほど!そういう意味だったのか!
小学校の低学年に属していたころから、わたしは“歌謡曲好き”でした。多くの歌をたちまちのうちに覚えていました。年齢が上がるにつれて、特に恋心を歌い上げるような曲では、歌詞の意味やその暗示するところにより深く注意を払うようになっていました。なのに、わたしが三十代の半ばも過ぎた1983年に発売された「遣らずの雨」については、そのタイトルの意味にさえ、気を留めなくなっていたのです。歌謡曲は、実はもう、わたしにとって、子供、少年だったころのようには、近しいものではなくなっていたいたのですね。「歌謡コンサート」にぼんやりと目を向けながら、わたしは初めてそのことに、はっきりと、気づきました。
わたしはそもそもどういうふうに“歌謡曲好き”になっていたのだろうか、と過去を振り返ってみることにしました。
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「遣らずの雨」。なんとなく分かっているつもりで、実は、ただぼんやりと耳にしたり使ったりしているだけの言葉は、「遣らずの雨」に限らず、思いのほかに、多いのかもしれないと、いまは感じています。