自由律俳句を鑑賞する
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自由律俳句という文芸の一分野がある。人によっては<口語俳句>または<一行詩>とも呼ぶ。山頭火、井泉水というこの分野の先達の名は、すでに日本文学史に列せられてもいる。
自由律俳句には、その名のとおり、<きまり>というものがない。五七五の十七文字より長くてもよし、短くてもよし、<季語>という考えも存在しない。<きまり>の代わりに暗黙の了解事項というのはあるかもしれない。一行詩という呼び名からも知れるように、句を詠む途中に呼吸が入るほどに長い句はないようだ。
<層雲>という自由律俳句の作家たちの同人誌がある。今年、一九八七年の十一月号で通巻八百九十号になる、井泉水が長く主宰した雑誌だ。
その十月号の<作家研究>と名づけられた欄で一夫という作家の、沖縄を題材にした、あるいは沖縄で作った句に出合った。
ハイビスカスの血の色に咲く風化しない戦争の残像
この南国の花の色を、太陽が育てあげた情熱の色と見るか、戦争で流した血の色と見るか−−。あまりに直截的な切り込みようが、平凡な言葉づかいにかえって多くを語らせる効果を生んでいる。
観光案内の裏側にある基地の街の尖った表情
沖縄での観光は米軍基地の広大さを知らされる旅に等しい、と感想を述べた友人がいた。「尖った表情」と見えたのが自らの胸の痛みの風景化にすぎないことを、作者は熟知しているが−−。
戦さがあったことも摩文仁の丘の蒼すぎる空
前二句と比べると、対象との距離の置き方が違っている。「戦さがあったことも」と「も」をつないだ瞬間に、作者は意識の領域を広げ、自由を味わい、視線を空に振り上げることができた。題材の対象化の妙で前二句に数段まさる句となっている。
生き残った悔を言う皺深い顔が海を見ている
一夫の沖縄五句の中で唯一<人の影>が見える句。「生き残った」のはいったいだれかなのか−−。沖縄の海に面して「悔」を感傷する作者は「皺深い顔」のもう一人の自分を横に立たせることで、辛うじてこの句を吐くことができたようだ。
戦禍を飽食した南の海の何と白々しい静けさだ
再び、直截さを故意に前面に出した句だ。「静けさだ」と断じて見せたこの句の芸術性は実は、この「だ」の一文字に集約されている。怒りに流されず、感傷に溺れず、「南の海」を瞬時に想像力の前に引き出してしまう−−。この作者の力量をしのばせる一句だ。
一夫は現在七十六歳。自由律俳句暦五十余年の“歴戦のつわもの”だ、だが、これらの五句に見られる−時には過度と言えるほどの−若々しさはどうだ。題材の沖縄がこの作者をひとときのタイムスリップ旅行に誘い込んだものらしい。
俺を信じろという男の酒女グラスに軽く受ける
一夫が最も得意とする人情世界の句も一句添えておく。
<加毎>の新年文芸の作品募集中だ。論文、創作、随筆、短歌、俳句、川柳、児童作文−−。この冬は、南カリフォルニアの文芸ファンとどんな出会いがあるか。楽しみな季節だ。