再掲載: 番外 翻訳で遊ぼう “はてな?”集  =1=  2008年12月8日

  "REASONABLE DOUBT" (Ivy Book)とその日本語版文庫本(出版社と翻訳者の名は伏せておきます)を読んで「はてな?」と感じた個所を順に拾ってみました。

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<001>

  リムジンから黒い人影が降り立つのに目もくれず…(文庫本上 P.11)

  He had barely noticed the dark figure emerging from a
limousine… (Paperback P.3)

  まず、日本語訳は過去完了を無視しています。次に、<barely>に気を配っていません。原文は<目もくれず>から感じられるほど意図的ではありません。

  試訳:…黒い人影が降り立つのに彼はほとんど気づいていなかった。

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<002>

  とっさの行動を起こす前に…(P.11)

  Before he could react…. (PB P.3)

  <とっさ>に当たる単語がありません。

  試訳:彼が反応する前に…

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<003>

  疑わしい点をわたしに有利に解釈して下さるだけでいいの。(P.12)

  Just give me the benefit of the doubt. (PB P.3)

  <the benefit of the doubt>はほぼ辞書どおりの訳ですが、なんだかまだるっこしい言い方になっていませんか?

  試訳:(わたしにかけられている)嫌疑を「本当にそうだろうか」という視点から見てみてください。

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<004>

  マスコミはこの事件を砂漠の大雨のように狂喜して吸い込んだ。(P.13)

  The story had been soaked up by the press like a
rainstorm in a desert. (PB P.4)

  ここでも過去完了の無視があります。<狂喜して>は―その程度の説明語をつけ加えるのは許されるのかもしれないとも思いますが―原文にはありませんし、<砂漠に大雨>が降っても、砂漠もマスコミも<狂喜>はしないでしょう。

  試訳:報道機関はこの事件を、降る大雨を吸い尽くす砂漠のように貪ってきていた。

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<005>

  …交通の激しい通りから離れた隅のテーブルへ案内した。(P.15)

  The restaurant was crowded but the maitre d’ (略)led
them to a table in a corner, out of the bustle of traffic.

  問題は<traffic>です。<交通の激しい通り>の<通り>が原文にはありません。この<the bustle of traffic>はレストランの中の<人びとのざわざわとした動き>だと考えるのが自然だと思います。

  試訳:レストランは混んでいたが、メトゥラ・ディー(給仕長)は二人を、店内の人びとのせわしい動きから離れた角のテーブルに案内した。

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<006>

  それはいつも変りなく、執事が犯人だったなどという世迷い言は通用しない。(P.16)

  It was always the same, and it wasn’t The Butler Did It. (PB P.5)

  <The Butler Did It>は、それぞれの単語の初めが大文字になっていますから、本か映画の(よく知られた)タイトルだと思われます(翻訳されたときにはインターネットはまだほとんど普及していなかったでしょうから、わたしも使わないでおきます)。せめて「 」に入れるぐらいの工夫は必要だったでしょう。
  <世迷い言>であることを示すための大文字だとは思えません。映画か何かの中で、大金持ち(被告ジェニファーも大金持ちの娘)が殺人の疑いをかけられたときに<やったのは執事だ>と言い逃れする場面が頭に浮かびます。

  試訳:いつもそうだった。「殺したのは執事なんだ」とはいかないのだった。

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<008>

  地方検事代理(P.26)

  Acting D.A. (PB P.8)

  これは誤訳ではありません。ただ、この<acting>は<代行>の方がいいと思います。
  <D.A.>は<District Attorney>で、通常<地方検事>と訳されますが、日本で<検事>と聞いて思い描くものとは異なります。この小説の舞台はニューヨーク州ニューヨーク市(マンハッタン地区)です。州の<地方検事>は普通、カウンティー(郡)ごとに一人置かれています。<地方検事>はその郡全体を統括する検事局の<長>です。つまり、<地方検事>は郡の<検事局長>とでも呼ぶのがいいと思われます。ちなみに、この<検事局長>は住民による選挙で選ばれます。

  試訳:検事局長代行

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<009>

  地方検事補(P.29)

  A.D.A (Assistant District Attorney) (PB P.9)

  この<地方検事補>が日本でいう<検事>に当たります。ニューヨーク市を管轄する検事局なら<地方検事補>の数は数百人規模でしょう。

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<010>

  銀縁に固定された思い出の数々を手で探り、一枚を取り出した。(P.40)

  He reached in among the memories fixed in silver and
pulled one out. (PB P.19)

  死んだ息子ネッドの家にライアンはいます。「食堂の食器棚のいちばん下の浅くて広い引き出し」の中に<ありとあらゆるサイズの(ごたまぜに詰め込んであった)写真>を見つけました。見ないでおこうと思いましたが、誘惑に負けて、写真に手を伸ばしました。
  さて、<広い>とはいえ<浅い>引き出しの中に、「銀縁」かどうかはともかく、フレイム(縁)に入った写真は何枚あったのでしょうか?フレイムに入った写真が<浅い>引き出しの中で<ごたまぜ>になるでしょうか?
  ここの<silver>は写真で使われる硝酸銀を指していると思います。小説の最後近くで、ライアンにはかつて写真撮影に凝った時期があったことが明らかになります。

  試訳:硝酸銀(印画紙)に固定された思い出の数々…

  −−まだつづきます。