第175回 自己表現力を磨かないと…

  メジャーリーグの審判になろうと努力と苦労を重ねている日本人(Xさん)の姿を追ったドキュメンタリー番組を数週間前に、NHKの国際放送で見ました。
  長年の夢を実現するために、妻帯者であるXさんが単身でアメリカに渡ったのは6年前のこと。Xさんは、そのときすでに三十代の半ばになっていました。そして、40歳を越えたXさんはいま、これまでの並大抵ではない精進、鍛錬などが実って、メジャーリーグのすぐ下のクラスであるAAA(トリプルA)の審判にまで昇ってきています。メジャーへの昇格の可能性が見えるところまでやっとたどり着いているのです。
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  マイナーリーグのゲイムは3人の審判が進行させます。3人はシーズンを通して、3人のうちのだれかが運転する自動車で、地方都市の球場から他の球場へと長い道のりを移動しつづけなければなりません。恵まれない年俸。近くのファストフードの店で買ってきたものを二流か三流のホテルの部屋で食べることが普通の毎日。そんな中でも、筋肉トレーニングなどに励んで、炎天下でのゲイムがつづくスケデュールに負けない体も維持しなければなりません。
  審判学校を修了してルーキーリーグで働き始めた100人のうちでメジャーリーグに昇格できるのはたった1人という厳しく、激しい競争の真っ只中で、Xさんは頑張っているのです。
  しかし、Xさんは、一方で、自分が年齢的な限界に近づいていることも強く感じています。審判として求められる体力の限界に近いところまで自分を酷使してきたことを知っているのです。ことしのシーズン後にメジャー昇格がなければ、もう日本に戻るしかないかもしれない、という不安にときおり襲われています。
  正直に言いますと、番組を見ながら何度も涙を流してしまいました。もともと<頑張っている人>を見るとすぐに涙腺が緩むたちではあるのですが…。
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  ある審判を昇格させるかどうかを決める重要な手続きの一つが球場での査定です。審判がどういう判定を行っているか、選手や監督たちの不平や抗議をどう処理しているかなどを、予告なしに球場を訪れた査定員が事細かに観察し、評価するのです。シーズン中にこういう査定を繰り返し、シーズン終了後に、昇格させるかどうかに関する最終的な結論を上層部がまとめるわけです。
  Xさんたちのティームをある日、その査定員が見に来ました。Xさんにとっては“運命の日”だったかもしれません。
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  その日のXさんの仕事ぶりに対する査定員の評価の中で最も重要だと思われたのは「君は、ピッチャーが投げたボールがホームプレイトに達するまでのあいだに、自分の頭(眼)の位置を下げる。そこが大問題だ」というようなものだったようです。(わたしの長年にわたるメジャーリーグTV観戦歴を背景にして言いますと)たしかに、メジャーリーグ球審の中で、いくらかでも頭(眼)の位置を変える者はほとんど皆無だといえます。動かすというのは、メジャーの審判にとっては<あってはならないこと>と見られているようなのです。ですが…。
  番組のこの辺りを見ていたときには、わたしの目から涙が消えていました。査定員のその指摘をXさんがそのまま受け取ったからです。受け取っただけではなく、球審を務める次の試合では自分の判定にすっかり自信をなくしてしまっていたからです。…くやしいではありませんか。
  Xさんはなぜ「僕はこれまで6年間、このスタイルでやってきた。僕のボールとストライクの判定がほかの審判と比べてそんなに悪いのか。格別に悪いのならともかく、そうでないのなら、頭(眼)の位置を上下にいくらか動かすことのどこがいけないのだ。僕はメジャーリーグでもこれでやっていくつもりだ」と反論しなかったのでしょう?
  英語力の不足?
  日本人はそんな反論はしないものだ?
  英語力が十分であろうとなかろうと、言いたいことは言う、という態度を「(メジャーでやっていけるだけの)気骨がある」として、査定員はより高く評価したはずです。アメリカ人というのは(例外もあるでしょうが)そういう態度をとるように教育を受けているのです。
  それに…。世界中からプレイヤーが集まっているアメリカのプロ球界では“控えめな日本人らしさ”は通用しない、ということをXさんは、それまでの6年間に学んでいないようでした。…残念でなりませんでした。
  Xさんの“気後れ”はほかのゲイムでも見られました。判定にしばしば不服を並べ立てることで知られているという監督の攻撃をXさんが受けました。長々とつづく抗議をXさんはただ辛抱強く聞いています。…そんな監督を退場させられない、気が弱い審判!その瞬間に、自分に不利なイメッジをXさんは自ら作ってしまったのです。Xさんのメージャーリーグへの昇格は、少なくとも、このシーズン後にはない、と思うしかありませんでした。
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  Xさんはその後、首筋に激痛が走るという病気に見舞われます。ファウルボールを(マスクは被っているとはいえ)頭や顔で受けすぎたことが原因だったようです。Xさんはシーズンの最後の数ゲイムを休まなければなりませんでした。
  Xさんのシーズンは終わりました。シーズン前には予想できなかった状態で。
  来年はどうするか。このままもう一年挑みつづけるか、日本に引き揚げるか。Xさんの選択は楽にできるものではなさそうでした。
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  番組を見終わって…。
  Xさんに日本人全体を代表させては気の毒なのですが、日本人の自己表現力はいまだに乏しすぎる、と思わずにはいられませんでした。国際社会で外国人と対等に話ができる日本人はまだ少ないに違いない、と感じてしまいました。
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  自己表現力が不足しているという点では、日本の政界も負けていません。日本はいまだに国際政治というものが分かっていません。勢いが余って排他的な愛国主義に走ってはなりませんが、言うべきことを言わずに相手の顔色をうかがっているだけ、というのは国際政治ではありません。
  実際に、国際社会のどういう場面で何を口にするべきかを熟知している政治家の名をすぐに挙げることができる国民が日本に何人いるでしょう?…不幸なことです。
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  尖閣諸島で中国の漁船が海上保安庁の巡視船に体当たりしてきた事件のせいで日中関係がひどく歪んでいるときです。
  国会の予算委員会で“柳腰”の解釈をめぐって与野党間でああだこうだと言い合っている暇があるのだったら、政治家はその間に、国際社会で通用する自己表現力はどうやったら研くことができるか、中国といま、何をどう話し合うべきか、を考えるべきです。国民のために働くというのはそういうことでしょう?
  こんなときに、ブランドものの服を着て国会内で写真を撮った議員を非難して何か仕事をしているような気になっている議員が何人もいるというのは、いったい、どういうことなのでしょうね?
  
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  3A審判・平林さん 資金難で渡米ピンチ
                          スポーツ報知 2010年12月14日(火)8時0分配信

  元パ・リーグ審判員で米大リーグ傘下3Aの審判を務める平林岳さん(44)が13日、資金難で来季は渡米できない危機に立たされていると告白し、新規スポンサーを募った。
  05年から米国で日本人初のメジャー審判員を目指す平林さんに、不況の嵐が吹きつけた。「資金が底をつきました」。今季までスポンサーの支援を受けていたが、不景気で年間300万円の援助が途絶えることに。月給は食事代を含め約3900ドル(約32万8000円)で、シーズン中の半年間しか支給されない。現状では、妻と中学2年の娘を残しての単身渡米は“アウト”。「来年は日本で資金をためないといけないかも」と漏らした。
  この日は都内で少年野球指導者セミナーの講師を務めた。「何とかメジャーに挑戦したい」。3月のオープン戦合流をあきらめず、支援者探しに奔走する。