第174回 大坪・佐賀版 「語るに落ちる」

  司法試験というのは難しすぎるのではないかと思い始めました。
  このところ明るみに出ている検察官の不祥事を見ていると、彼らの頭脳があまりにも、そうですね、あまりにも“おそまつ”にしか感じられないからです。…難しすぎる試験に合格した人たちの頭脳が“おそまつ”?
  ええ、そうではありませんか?下のニュースを読んでください。

  <郵便不正を巡る証拠品のフロッピーディスク(FD)改ざんに関連した犯人隠避事件で、最高検に逮捕された大阪地検の前特捜部長・大坪弘道容疑者(57)が、接見した弁護士らに対し「最高検の『筋立』は作られたストーリーだ。事実と異なる」と話し、犯人隠避容疑の否認を続けていることがわかった>(2010年10月6日03時06分 読売新聞)
  「最高検の『筋立』は作られたストーリーだ。事実と異なる」ですって?こういうのって、それまで自分たちがそうしてきたのでなければ、こう滑らかには言えないのではありませんか?つまり、自分たちはこれまで、事実や被疑者の反論・抗議を無視して<作られたストーリー>に沿って取り調べをやってきた、だから、いま、最高検もそうしているのだ、というぐあいに。

  <大阪地検特捜部の押収資料改竄(かいざん)・犯人隠避事件で、徹底抗戦の構えをみせている前副部長の佐賀元明容疑者の弁護人は取り調べの全過程を録音・録画する「可視化」を最高検に申し入れた>(2010.10.5 19:48 産経ニュース)
  「取り調べの全過程を録音・録画する「可視化」を最高検に申し入れた」というのは、事実上、それまで自分たちは「可視化」されないところで被疑者たちを、自分たちの意のままに(脅したりすかしたりしながら)取り調べて成果を上げてきた、ということの自白でしょう?

  「語るに落ちる」という表現がありますよね。大阪地検の大坪弘道前特捜部長と佐賀元明前副部長の主張・要求がまさしくそれに当たっていると思います。
  つい先日までは、検察(特捜部)は自分たちが作ったストーリーに無理に合わせる取り調べなどは行っていない、というような姿勢に終始していたくせに、自分が逮捕されると、検察(特捜部)はそいうことをする危ないところだ、とたちまち態度を変えてしまう。検察(特捜部)が不当・不法な取り調べを行うことはありえないのだから、可視化は不要だ、としてきたくせに、自分が逮捕されると、可視化しないと検察(特捜部)はどんなあくどい取り調べを行うか知れたものではない、と訴える。
  彼らにはずいぶん都合のいい話です。
  いえ、たしかに、自分たちが作り上げたストーリーに沿った取り調べしか行わない、というのも、外界から目が届かないところで被疑者を脅すようなことを繰り返して、検察(特捜部)に都合がいい調書を仕上げる、というのも、ともにただちに改めるべきことですよ。
  しかし、この二人の主張や申し入れからはまったく反省が感じられません。これまで自分たちが現実にやってきたことへの悔い、良心の呵責というものが見えません。自分たちがいまになって何を言っているのかが十分に理解できているとはとても思えません。

  司法試験に合格するためには、大半の受験者は、それこそ、わき目も振らずに法律や判例について勉強するのでしょうね。一般常識にいくらか欠ける人でも、決められた点数を取れば合格するのでしょうね。
  大坪、佐賀両氏の頭脳が“おそまつ”だと見えるのは、要するに、二人には、平凡な感覚で事の善悪を判断する能力が欠けているからだと思います。
  そもそも、前田主任検事が証拠を(規則に反しているのに自分のパソコンを持ち込んで)いじったことがすでに懲罰ものの振る舞いだったはずなのに、間違えてフロッピーディスクの日付を変更してしまったという主任検事の言い訳を了承してしまう?意図的な改ざんではないようだから、穏便にすませよう?
  そんな理屈が通ると本気で信じていたのだとしたら…。
  受験者・合格者の頭をこんなふうに粗雑にしてしまうほど難しいのなら、いまの司法試験のやり方は改めるべきです。そう思いませんか?
  いえ、皮肉で言うのではありません。受験勉強だけに明け暮れているうちに、周囲の、普通の世界が見えなくなり、事の善悪の違いも分からなくなってしまった人たちだけのものに司法界がなってしまってはなりませんからね。