第173回 (緊急掲載) 「船長釈放」を政争の道具にするのは… 

  【中国人船長釈放 関係修復を優先した政治決着】というのが読売新聞(9月25日)の社説見出しです。常日頃は【…せよ】といった形での高圧的な主張が目立つ同新聞としては異例の“軟弱”さですね。
  尖閣諸島沖での、中国漁船による海上保安庁の巡視船への衝突事件で逮捕されていた中国人船長を処分保留のまま釈放した那覇地方検察庁の判断の良し悪しを評価するのはそれほど難しいということの表れなのでしょう。
  事件が起きてからの中国政府の動きを見ていて再び思い出したことがあります。「苦言熟考」第140回(2009年12月10日)で紹介した、ある日本人真珠販売業者が香港で体験した中国人の“交渉術”のことです。
  <http://d.hatena.ne.jp/kugen/20091210/1260402256
  衝突事件に関する意見をまとめる際に参考になるかもしれませんので、ちょっと長くなるのですが、ここに引用してみます。
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  古い話です。1983年の春に、ある真珠卸商の男性にこんな体験談を聞きました。なにしろ四半世紀以上も前のことですから、すべてが聞いたとおりというわけではありませんが、大方のところではこんなふうでした。
  ある日、バッグに詰めた真珠を抱えて、男性は香港に向かいました。二泊三日の旅です。男性は<自分が扱う良質の日本真珠なら、香港で立派な真珠宝飾品になる><買ってくれる宝飾品メイカーが必ずあるはずだ>と信じていました。
  宝石業界の日本人友人が紹介してくれたメイカーの一つを男性は訪ねました。メイカー側は比較的に若い人物が<自分が担当者だ>と言って、相手をしてくれました。<たしかに良い品質の真珠で、粒ぞろいもいいし、値段も悪くない>などとこの“担当者”は日本人卸商を喜ばせました。ところが、長時間の品定めのあと、商談をいざまとめる段になると−。“担当者”はこう言い出しました。<ただ、わたしの一存では決められない。午後に、上司に会わせるから、この上司と話して決めてほしい。ついては、あなたの言い値のとおりに買ったとなると、わたしも顔が立たないし、上司も納得しないだろうから、XXパーセント引きの値段で話をまとめてくれないか>
  日本人真珠商は<XXパーセントぐらいならいいか。とにかく初めて取引する相手だし>と考え、“担当者”の要求を呑みました。
  午後になって会った“上司”も男性の真珠を気に入りました。ただ、話が詰めに差し掛かると<いやあ、日本の真珠はいい。買いますよ。ただ、わが社に購入費がいまいくらあるかは重役しか分からないから、あす出直してください。で、その際には、わたしの顔を立てて、もうXXパーセントだけ値引きしてくださいよ。重役も決断がしやすいでしょうから>と、“担当者”とほとんど同じことを言い出しました。
  話の展開の仕方は気に入らなかったのですが、男性はすでに丸一日、この宝飾品メイカーで時を過ごしていまいした。求められた値引き額は大きなものになっていたものの、ほかのメイカーと新たな商談を翌日に始める手間ひまを考えれば受け入れるしかない、と思いました。
  その翌日、日本人卸商は“重役”と会いました。しかし、この人物の言い分は、あろうことか、それまでに詰めていた値引き幅ではまだ“社長”を納得させられないだろう、というものでした。
  <あすの昼間には香港を離れなければならない>日本人真珠商は、やっと“社長”と商談したときには、原価を大きく割らずに換金できれば“儲けもの”というところまで追い込まれていました。
  「すごいですよ、中国人の商売のやり方は。いかにも買うようなことを言って、こちらを嬉しがらせておいて、最後のところで値引きしろという。何層もの社員が後から後から出てきて、同じことを平然と繰り返す。神経戦に負けてしまって、あとはどうにでもなれ、とまで思わせられてしまいましたよ」。男性は体験談をそう締めくくりました。
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  上の話はあくまでも商談での交渉術についてのものです。ですが、交渉というものを中国人がどう考えているかは、ここからも窺うことができるように思えます。
  相手に“弱点”があると見ると、そこをどこまでも攻め立てる、というふうにでも言えるでしょうか?
  民間の親善交流や日本の芸能人の公演を延期する-要人の訪日を取りやめる-予定されてた日中間の会談を拒否する-ハイテク産業にはなくてはならないレアアースの対日輸出を差し止める-事業の下準備のために中国国内で調査活動をしていた日本企業の職員などをスパイ容疑で拘束する。
  …自国の利益のためにならなんでもやってのける中国政府の“面目躍如”というところではないでしょうか。
  那覇地検はともかく、日本政府が中国政府のその辺りの性向を知らなかったというのは残念なことです。自民党政権時代からつづいている、相変わらずの、国際関係の現実への無知?
  中国政府というのは、そもそも、アノ北朝鮮政府の最大で最愛の“友人”なのですよ。民主という考えがから地球上で最も遠い国の一つであるミャンマーを支援している政府なのですよ。自国の、というよりは、自らの政府の利益のためには“なんでもあり”という国の一つなのですよ。
  日本政府はそういう政府を相手に「戦略的互恵関係」を結ぼうとしているのです。…いくらか譲歩すれば相手も折れてくるのではないか?
  船長を釈放したあとですぐに報じられたのは、船長逮捕に関して「中国政府は日本政府に謝罪と賠償を求める」というニュースでした。
  この事件は、日本の海上保安庁による中国漁船船長逮捕が正しかったかどうか、どちらがどちらにぶつかったのか、などという問題では当初からありませんでした。船長は日本の領海を侵していたわけではない=尖閣列島(中国側は釣魚島)はそもそも中国領土なのだから日本に船長を逮捕したり裁いたりする権利はない、という中国の主張をどう処理するかが日本側に問われていたわけです。
  ですから、読売新聞が言う「政治決着」はただの希望的観測でしかありません。船長を釈放したとたんに出された「謝罪賠償請求」でそれがすでに明らかになっています。まだ「決着」には程遠い、というのが現実です。
  では、日本政府はどうすればよかったのか?
  今回のような事件が起きたらどう対応するかを(自民党政権時代を含めて)日本政府が決めていなかったことが第一に問題にされるべきです。当然にも想定される中国政府との難しい政治交渉を避けたいのだったら、初めから、中国船の領海侵犯があってもけっして拿捕するな、乗組員を逮捕するな、ただ中国船を日本の領海外に追い出せ、というような海上保安庁への指示もありえたはずです。乗組員を逮捕してもいいというのなら、その後の対応を日本政府がどうするのかを明確に決めておくべきでした。どこまで訴追するか-どこで国外追放とするか-どうなったら恩赦を与えるかなどなど。「日本の法に従って粛々と対処する」というのはそういうことでしょう?…決めておいても、尖閣列島は中国のものだという中国政府の主張が変わることはないにしても。
  事実は知りようもありませんが、報道されたところを見る限り、アメリカ政府筋が「尖閣列島日米安保条約の対象領域」だと日本側に告げたことが那覇地検(日本政府)の判断を大きく左右したようです。尖閣列島は日本のものだと事実上アメリカは言ってくれている-中国の主張をアメリカは支持していない-だから、船長を処分保留のまま釈放する形で中国に譲ったところで尖閣列島の領有権は日本にあるという国際的な立場に揺るぎはない、という具合に。
  そうだとすれば、これは恐るべき“対米従属”ではないか?日本の主体的な立脚点はどこにあるのか?
  戦後65年、この点では何も変わっていないようですね(米軍普天間基地の移転についても、沖縄県民の宿願を無視しアメリカの都合を重視するのも、同じ根から出ているのでしょう)。排他主義に陥るのは愚の骨頂だといえますが、対米であれ、対中であれ、日本政府の外交に気骨や気概というものが感じられないのは、日本国民にとって不幸なことです。
  ただ…。
  那覇地検の釈放決定に政府の指示があったという証拠はまだ提出されていませんが、良好な対中関係なしには立ち行かない日本の経済・産業界の意思がこの決定に関わっているだろうということは容易に想像できますよね。ですから、日本政府が船長釈放を決めたことを非難する者は、たとえば、船長を長期拘留したあとで裁判にかけた場合にありえる中国政府の反応(大規模な経済的報復など)にどう対処するかをも述べる責任があります(「カネよりも大事なものがある」などと、自分の頭脳に合わせて、事を極端に単純化して物を言うことが得意な石原慎太郎東京都知事のように、日本経済を見殺しにしてもいいとの覚悟がある者はともかく)。
  いやいや、難しい問題ですね。読売新聞の論調に、普段にはない、歯切れの悪さがあった理由が分かりますね。
  ところで、大新聞の中には「こんな場合に中国側のしかるべき要人とコンタクトできるルートを民主党が築いていなかったのがまずかった」というような見解も見受けられます。しかし、日本・中国政府の基本的・公的姿勢は、双方とも、「尖閣列島(釣魚台)は固有の領土であり、相手国とのあいだに(解決しなければならない)“領土問題”などは存在していない」というものです。そんなルートがあったとしても、中国側の、その「しかるべき要人」が日本に有利な案を提示してくれていただろうとは思えません。
  ですから、ここは、とりあえず、冷静になりましょう。
  この事件を、安倍元首相のように、ここぞとばかりに、自らのイデオロジーの宣伝道具したり、自民党みんなの党のように政争の武器にしたりするのは間違っています。これは、どの政党が政権をとっていようと起こりうる類の“国難”です。頭を寄せ合って、最善の乗り切り策をみなで考えるべきです。
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  ところで、<鳩山前首相は25日、中国漁船衝突事件に関し、「私だったら事件直後に、この問題をどうすべきか中国の温家宝首相と腹を割って話し合えた」と述べ、菅首相の対応を批判した>(読売新聞 2010年9月25日)そうですね。「話し合えた」というのなら、なぜ話し合わなかったのか?鳩山氏自身が所属する党が危機に陥る危険があったのですよ。なぜ、自ら名乗りを挙げて党と政府を救おうとしなかったのか?普天間基地の移転問題で無能の烙印を押された前首相がのほほんと「温家宝首相と話し合えた」などと、事がこじれてから、ほらを吹くことがどんなに見苦しいことかがこの能天気な“愚鈍”前首相には分からないのですね。
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  【9月28日に追加】
  中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突してきた事件に関して、その衝突状況を撮影したヴィデオがあるのなら、その映像を公開して、中国漁船に非があることを中国製政府に見せつけるべきだというふうに各野党が訴えていますね。
  こういう訴えをする政党は、自分たちは民主党よりはましな対応をしていると信じているようですが、はたしてそうでしょうか?甘いと思いますよ。
  漁船が巡視船に衝突したことが明確になれば、中国政府はこういう宣伝を始めるかもしれません。「わが国の領海を侵していた日本の巡視船を追い払おうと、福建省の漁民が英雄的な勇気を見せ、巡視船に自分の船を体当たりさせた」
  中国がそこまでやるかもしれないということを各野党は覚悟しておくべきでしょうね。民主党政府の不手際を責めれば解決するという性質の問題ではありません、これは。
  各野党も政府も、世界世論に訴えて中国に非道な振る舞いを控えさせるように努める一環として映像を公開するという辺りで意見をまとめるのが現実的な対応だと思います。