第157回 これは危ない! 検察審査会

  小沢民主党幹事長の「陸山会」による土地購入に関する政治資金規正法違反(収支報告虚偽記入)事件で東京第5検察審査会は2010年4月27日に、嫌疑が十分ではないとして不起訴となった同幹事長について「起訴相当」という結論を出しました。
  検察審議会にはどんな決議(起訴相当、不起訴不当、不起訴相当)でも行う自由がありますし、起訴権を乱用する検察に歯止めをかける(冤罪を防ぐ)という重要な機能もあるわけですが、この「起訴相当」には、議決にたどり着く過程の論理に、あまりに大きな無理があります。
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  スポニチの記事(2010年04月27日)によると…
  <議決は「小沢氏と元秘書らとの共犯関係の成立が強く推認される」とした上で、「『秘書に任せていた』と言えば、政治家本人の責任は問われなくて良いのか。市民目線からは許し難い」と批判した>
  とうことですが…
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  「共犯関係の成立が強く推認される」とはどういう意味なのでしょう。そういう「推認」をしたからこそ、検察は力任せの、強引な捜査を小沢氏に関しても行ったわけですよ。いまさら、検察審査会に指摘されなくとも、検察も国民もそんなことはとっくに承知しています。
  検察は、そんな捜査のあとで、やむなく、不起訴としていたわけです。
  それに<『秘書に任せていた』と言えば、政治家本人の責任は問われなくて良いのか。市民目線からは許し難い」と批判した>というのもずいぶん勝手な、傍若無人な言い分です。
  第一に「市民目線」。だれがメンバーなのかが公には分からない審査会が本当に「市民目線」の持ち主なのかどうか。そう言い切る資格がそのメンバーたちにあるのかどうか。
  「市民目線」というお題目を唱えればだれもが(それが水戸黄門の印籠ででもあるかのように)ひれ伏すとメンバーたちが信じているらしいところに強い恐さを感じてしまいます。
  第二に「『秘書に任せていた』と言えば、政治家本人の責任は問われなくて良いのか」。ここで論じられるべきであるのは、あくまでも、法律をどう解釈、適用するかという問題です。「政治家本人の責任」を問うことができるのは法律です。法に照らして<問えない>ものは問えないのです。そこに感情論が入る余地はまったくありません。そんなものが入っては、法律はそれを執行する者=検察だけを利する道具になります。被疑者の道義的責任を問うのが検察審議会の仕事であってはなりません。検察審査会にそんな仕事をさせていては危険です。
  「『秘書に任せていた』と言えば、政治家本人の責任は問われなくて良いのか」どうかを決めるのは国会です。連座責任を明確にする法律を国会がつくればいいのです。「良いのか」どうかを検察に、その都合に合わせて決めさせてはなりません。そんな判断を検察を求めてはなりません。
  一方、道義的責任を問うことができるのはあくまでも国民=有権者です。仮に、不起訴になった被疑者を、それでも胡散臭い、と思えば、有権者はこの人物を次の選挙で落選させればいいのです。この人物が所属する政党に投票しなければいいのです。
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  常に基点が揺れ動く「市民目線」などに法律は左右されてはなりません。
  ここで「市民目線」と言われているものは、要するにそのときの世論です。検察に操作された情報と、それを丸呑みするしかできない、正しい情報を伝えるという使命を自らほとんど放棄しているマスコミとが創りだしているだけなのかもしれないムードです。
  犯罪を裁くのはあくまでも法律でなければなりません。法律の厳粛な解釈でなければなりません。
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  東京第5検察審査会が…
  <収支報告書の記載や提出を担当者らに任せていたとの小沢氏の供述は「きわめて不合理、不自然で信用できない」と判断。土地購入直後に小沢氏が銀行への融資申込書に署名、押印していることを「購入原資を隠ぺいするための執拗な偽装工作」と断じた上で、「元秘書らが絶対権力者の小沢氏に無断で工作する必要も理由もない」と指摘した>
  というのも理にかなってはいません。特に<元秘書らが絶対権力者の小沢氏に無断で工作する必要も理由もない」と指摘した>という個所はいったい何なのでしょう?
  第一に、小沢幹事長を「絶対権力者」と決めつけていますね。ならば…
  日本の近代史上で「絶対権力者」だったのは天皇ですよね。大東亜戦争と対米戦争を日本軍はどう戦いましたか?大半の重要局面で軍部は天皇に「無断で工作」したのでは?天皇がのちにどんな責任も問われないためにも軍部は、むしろ、天皇に「無断で工作する必要と理由」があったのでは?小沢氏を「絶対権力者」と決めつけて、審査委員たちは自ら論理上の大きな墓穴を掘っています。彼らの結論は、たとえば、<小沢氏は絶対権力者だから、この人物を傷つけまいとして、秘書たちが自らの判断ですべてを取り仕切った>とでもなるべきだったのではありませんか?それが論理の整合性というものです。
  第二に、<収支報告書の記載や提出を担当者らに任せていたとの小沢氏の供述は「きわめて不合理、不自然で信用できない」と判断>というのにも無理があります。なぜなら、仮に、小沢氏が、検察審査会が描くような“極悪人”であるのなら、小沢氏はそれを十分に自覚して、自分がのちに犯罪者とされないように、むしろ意図的に<収支報告書の記載や提出を担当者らに任せていた>という可能性も無視できないからです。
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  自己宣告の「市民目線」などにこだわらない自由な眼には、東京第5検察審査会が言っていることは「きわめて不合理、不自然で信用できない」ものに見えます。
  審査会は…
  <「小沢氏を起訴し、公開の場で真実の事実関係と責任の所在を明らかにすべきで、これこそが善良な市民としての感覚だ」と異例の言及をした>
  とも述べているそうですね。
  なんと思い上がった態度でしょうか!<これこそが善良な市民としての感覚だ>ですって?
  国民のだれが審査員たちを「善良な市民」と認めたというのでしょう?
  もし審査会のメンバーが何の偏見・予見もない「善良な市民」であるのなら、彼ら強調すべきだったのは<小沢幹事長であれ、だれであれ、犯罪の容疑がけられた者は、厳正に法に照らして裁かれなければならない>というようなことだったはずです。<小沢氏を不起訴とした検察の決定には、法の解釈・適用の上で重大な過誤があった。再捜査を求める>というように理由づけられているべきだったはずです。
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  日本では<推定無罪>という法の基本がまだまだ理解されていません。被疑者に対する予見を排するという国民的努力がこれまでいかに欠けていたかを、この検察審査会が身をもって教えています。
  自らを“正義の使者”か何かだと主張して怪しげな意見を押し通そうという偽善を、本当の「市民目線」は見抜くものです。
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  ところで、この程度に底の浅い主張を、自分たちが(愚かにも)訴えてきたことを支えるものだとして、ただありがたがって受け止め、その“意義”とやらを増幅して喧伝しているマスコミの体たらくぶりはどうでしょう?
  マスコミにはもう知性も理性もまったく残っていないようです。