再掲載:2011-08-25  第211回 「入った!入った!」には普遍性がない

  日大三高の猛打がことしの「夏の甲子園」を制しました。高校野球ファンの夏が終わりました。
  さて、この大会の決勝戦をNHKの国際放送で見ながら改めて感じたことがあります。自分が口にしていること−−聞いていること−−が理屈に合っているかどうかについて考える習慣が日本人には、やはり、ないようだ、ということです。
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  野球の中継放送でこんな場面に出あいます。打球が外野の奥深くに飛んでいきます。アナウンサーが「大きい!ああ、入るか、入るか」などと言います。球場の(ほとんど)全観客が見守る中で打球が外野のウォールを越えます。アナウンサーが「入った!入った!」と絶叫します。
  そこで、ふと、それでいいのだろうか、と考えてしまうのです。
  甲子園球場を含めて、プロ野球の本拠地球場などを除けば、ちゃんとした外野席が備わっている球場は日本にいくつあるのだろうか。アマテュアのティームが週末などにプレイを楽しむ、日本中の大多数の小さな野球場には、まあ、外野席はないだろう。そんな場所で、あるプレイヤーがフェンスまたはウォール越しのホームランを打ったら、その場のプレイヤーや応援している家族たちはそれをどう表現するのだろうか。当然のことながら、「ああ、入った!」とは言わない−−思わない−−のではないか。
  だって、フェンスあるいはウォールの向こう側は駐車場だったり、雑木林だったり、校舎の壁だったり、ちょっとした道路だったりするだけですからね。そこには“入る”構造物がないのですからね。つまり、高校野球の県大会決勝戦プロ野球の試合が行われるような球場を除けば、「入った!入った!」というのは、その状況にふさわしい表現ではないのです。「入った!入った!」は日本全国のどの野球場でも使える言葉ではないのです。「入った!入った!」には普遍性というものが欠けているのです。
  これに対して、アメリカでは、アナウンサーは「ゴーイングゴーイング…、ゴーン(あるいはグッバイ)」などと言うのが普通です。外野の奥に向かって飛んでいた打球がフィールドを「出て行った(グッバイ)」というわけです。これなら外野席が備わっていない球場ででも使うことができますよね。合理的な表現です。
  「ゴーン=出て行った」は、日本でいうランニングホームランを「インサイド・(ザ・)パーク・ホームラン」と呼ぶこととも整合しています。選手たちがプレイするフィールドが「インサイド」なら、そこに外野席があろうとなかろうと外野ウォール(あるいはフェンス)の向こう側は打球が「出て行く」ところ、「アウトサイド」なのですから。「ゴーン(グッバイ)」はどこの野球場ででも使うことができる、普遍性がある表現であるわけです。
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  物の考え方のこのような違いを軽く考えてはならないと感じています。
  物事を詰めて考えればそれには実は普遍性がない、ということがあることに、日本人はもっと目を向けるべきです。
  本当はあいまいなことを口にしている−−耳にしている−−のに、それに気づかない人間にすべての日本人をしてしまってはなりません。
  日本人はもっと普遍的な思考ができるようになるべきです。フェンスまたはウォールを越えた打球が落ちるところは必ずしも外野席ではないということに気づくべきです。大きな球場でただ「入った!入った!」と浮かれているだけでは現実=事実が見えるようにはならないのです。
  観客席がない−−打球が入っていくところがない−−野球場が世間にはあふれているということに気づかなければならないのです。
  視野や視角を広げ、異なる角度から物事を見る習慣を身につけなければならないのです。
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  日本の政治が乱れきっています。大きな理由の一つは、合理的に物事を考える政治家が(自民党河野太郎氏あたりをまれな例外として)極端に少ないということです。裏づけがない、理屈に合わないことでも大声を出せばそれが通ると信じている政治家が政界の中心部に多すぎるということです。
  さて、さて、民主党の代表選挙が迫っています。
  たとえば、東日本大震災東京電力福島第一原子力発電所の大事故から復旧、復興するためのカネをどう工面するか?ずいぶん差し迫った大問題ですよね。
  ・さらに膨れ上がった借金を将来に残さないためには何らかの増税が避けられない!…いや、待て。いま増税が必要だと言ってしまうと、次の選挙で議席を減らすし、そもそも、増税したのでは日本経済が萎縮するではないか!!
  ・だから、将来に影響が及ばない短期の国債を追加発行してこの大危機を乗り切ればいいのだ!…いや、待て。短期とはいえ、国の借金をいま以上に増やせば、国債の格づけが下がって国際的な信用を失うし、日本経済全体が二進も三進も行かなくなる!
  さあ、代表選挙に立候補したい民主党議員たちはどうする?
  ・いや、いや、いたずらに波風を立てることはない。ここは(日本社会が愛してやまない)“玉虫色”の案を世間に向けて発しておけばいいだろう。そのうちになんとかなるさ、いままでがそうだったように。
  …だれも責任のある、明確な意見を述べません。
  ・硬いことを言うな。野球場に外野席があるかどうかなんて細かいことはどうでもいいじゃないか。マスコミがニュースにするような試合にしか、どうせ、国民は関心がないのだ。「入った!入った!」とみんなで言っておけば、それがホームランであることが分かるじゃないか。
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  政治家が無責任になったのは、端的にいえば、国民が物を詰めて考えないからです。マスコミがそうだからです。
  現在の政治停滞の大部分を生み出しているのは菅政府でも、民主党でも、自民党などの野党でもありません。国会での衆院参院の“ネジレ”現象が構造的に停滞の原因となっているのです。各政党は、それはそれで始末が悪いのですが、その“ネジレ”を自分の都合に合わせて利用しているだけなのです。そして、そこで忘れてならないのは、前の参議院議員選挙民主党過半数を取らせなかった−−衆院参院の“ネジレ”を創出した−−のは、ほかのだれでもなく、国民=有権者自身だったということです。ですから、つまりは、この停滞は国民が自ら望んだものだ、ということになります。そうではありませんか?
  国民は、そのことに無責任になってはいけません。自分たちが政治を停滞させる道を選んでおきながら、政治がうまく機能していないことに不平を述べるのは卑怯というものです。
  歴史的な政権交代の意味を国民が合理的に受けとめていたら−−打球は実際にはどこかに「入る」のではなくプレイフィールドを「出て行く」のだと、自分たちの居所を足場にして、大局的に、冷静に状況を理解するような能力を有していたら−−この“ネジレ”現象を原因とする政治停滞は起こっていなかったかもしれません。民主党にもう少しだけやらせてみてから結論を出そう、という選択もありえたわけですから。
  “ネジレ”現象がなかったならば、政局が与野党挙げての“菅降ろし”に走ることもなく、東日本大震災東京電力福島第一原子力発電所の大事故への対応ももっと手際よくできていたかもしれません。
  あいまいにしておけば、進む道はそのうちに見えてくるだろう、という政治家たちが、マスコミが、日本を悪くしています。
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  野球の中継放送からでさえ、何かが見えてくることがあります。