~あるカラオケシンガーのメモワール~ <6>

第6話 ~フィリピン~ 一九八四年八月 <6>

  (このストーリーはフィクションです。作中の人物、企業などはすべて作者が創作したものです)

     〈六〉 

  午前三時半を過ぎていた。外の空気はまだひどく湿っぽかった。[さくら]の前の通りにはほとんど人影がなかった。

  白のTシャツとブルージーンズを身につけただけで〔ママ〕の気配などもうまるで感じさせない女になっていたリサを、タクシーは通りの向こう側で待っていた。わたしに向かって手を振ると、リサはゆっくりと通りを渡り、タクシーに近づいて、慣れた様子で前部ドアの開け放された窓から運転席を覗き込んだ。運転手は眠り込んでいるらしかった。リサは、大きく数度うなずきながら車の前に移り、フードに両手を置くと突然、車を上下に揺すった。運転手は、リサのそんなやり方に慣れていたのだろう、たいして驚きもせず目を覚ますと―たぶん、苦笑混じりで―首を左右に振りながらハンドルを握った。

  〈リサには今夜も帰っていく自分の家がある。彼女を待ってくれている家族がいる〉。彼女を乗せたタクシーがデル・ピラー通りに消えていくのを見送りながら、わたしはそんなことを考えていた。

          ※

  わたしは二人の娘、テレサとユキから引き離されていた。ブラカン州に住むわたしの両親に二人をあずけ、会いに行けるのは、二週間ごとの休みの日だけ、という状態にあった。

  ブラカンはメトロ・マニラのすぐ北に隣接する州だから、地理的にいえば、[さくら]があるエルミタ地区からそう遠くはなかったのだけれども、行き来にかかる時間と交通費のことを考えれば、毎日通うにはやはり遠すぎるのだった。

  わたしの五人の姉妹も、みんな、結婚して、そのブラカン州に住んでいた。だから、姉妹たちは、小さな借家でわたしの娘たちの面倒を見てくれている両親をときどき手助けはしてくれていたものの、わたしのためにそれ以上の便宜をはかることはできなかった。

  カロオカン市のアパートで暮らしていた、たった一人の兄、ベンジーはどうだったろうか。カロオカンは両親が住む町とマニラの中心部を結ぶ交通路のちょうど途中に位置しているのだから、当然、兄のアパートからの方が両親の家からよりは[さくら]に通いやすかったろうけれど、兄嫁が、すでに彼女の母親も同居していたあの狭いアパートに、わたしと娘二人を心から迎え入れてくれていたかどうか。

  日本で稼いだお金の一部を、かつて、人より数年遅れて大学に通っていた兄の学費に回してやったことがあった。でも、それはもう遠い昔の話だったし、そのことを特別に受けとめる者は家族の中にはいなかった。何といっても、兄は一人息子だった。その一人息子に、家族が力を合わせてできるだけ高い教育を受けさせようと努力するのは、フィリピン人の家族としてはあまりにも当然のことだった。実際、兄を助けたのわたしだけではなかった。兄の姉妹はみんな多かれ少なかれ、兄の学費を援助したことがあるはずだった。そして、その兄自身も、ほかのだれもがそうだったように、自分と自分の家族の暮らしを立てていくだけで精一杯だった。大学で学んだことを活かしてマスコミの世界に仕事を見つけることができていたなら、もう少しはわたしを助けることができていたかもしれないけれど、キアポの書店で在庫管理係として働いていた兄には、わたしのためにしてやれることなど、たとえその気があっても、やはり、ありはしないのだった。

          ※

  セサールとわたしが二人の最初の住まいとしてパコに小さな部屋を借りたときから、ほとんど五年が過ぎていた。

  あのころ、ミンダナオ島のダバオから出てきて間もない―メトロ・マニラには頼る家族も親戚もいない―青年にとっては奇跡みたいなものだったはずだけれども、セサールはマカティ市の中心部にある高級ホテルの中のレストランに仕事を見つけ、パートタイムのウェイターとしてなんとか働きつづけていた。

  わたしは、[ハリソンプラザ・ショッピングセンター]の中のブティックで働いていた。わたしを雇うようブティック経営者に強く推してくれたのは、店の最上客の一人だったリサだった。…〈喜んでもらえてわたしも嬉しいわ。あなたとセサールの仲を取り持った者として、わたしにできることを何かしてあげたかったから〉。わたしの感謝の言葉にこたえて、リサはそう言ってくれたのだった。

  ブティックでは、経営者が許可する値段で売って、売上高の一五パーセントを受け取るという条件で働かせてもらい、定まった給料としてほかの店員たちがもらっている額を少し超える程度の収入をわたしは得ていた。実のところ、そんな収入では、両親に一部を回したあとは、せいぜい、わたしたち自身の部屋代を払い、食べ物とちょっとした生活必需品を買うぐらいしかできなかったのだけれども。

  それでもわたしは、自分がパートタイムで稼いだお金で学費を払い、満ち足りた気分で再び大学に通っていたセサールに負けないぐらい十分に幸せだった。あのころの二人の暮らしは、未来への明るい希望に包まれていたのだった。

  二十一歳と十九歳。二人はな何となく、そう信じていたのだった。

          ※

  そんな幸せな日々は、でも、長くはつづかなかった。

  わたしが妊娠したことが分かった日から、自分たちの暮らしが、それまで考えていたものとひどく違った形で見え始めたし、子供が育てられるようにと、少し広めの部屋をサンタアナに借りたころには、もう、経済的な意味では未来に希望を持ちつづけていられるような状態ではないことが、二人にもはっきりと分かるようになっていた。

  出産が近づいた。わたしはブティックをやめ、セサールはフルタイムの仕事に戻った。

  テレサが生まれた。わたしはテレサのせわに一日中かかりきりになった。

          ※

  あのころの二人には次から次と新しいことが起こった。

  まず、セサールの心の中で大きな変化があった。…土木工学の学士号を取得しようという、長年抱いていた夢を捨てることにした、とある日突然、彼は言いだしたのだった。それは、石油で繁栄しているサウディ・アラビアで将来技師として働く、という希望を捨てるということでもあった。

  セサールは沈みきっていた。彼の言葉はわたしには、不吉の前兆のように聞こえていた。でも、わたしは彼が決めたことに反対しなかった。実際、セサールの学費に当てるお金などどこにもなかったのだ。わたしは彼の決心を、しばらくはフルタイムの仕事に打ち込んで、日々の暮らしをいくらかでも良くしよう、あとのことはそれから考えよう、という気持ちの表れだ、と受け取ることにして、その場をやり過ごした。…ほかにできることはわたしにはなかった。

  セサールはもう一つの仕事を探し始めた。けれども、時間は空しく過ぎていった。メトロ・マニラのどこでも、どんな業種でも、仕事の口は不足していた。希望に見放されて、彼は精神的な疲労を深めていった。…手遅れになる前に、わたしたちは、暮らしを上向きにする手段をなんとしても見つけ出さなければならなかった。

          ※

  救ってくれたのは、このときもリサだった。

  リサの口ききで、セサールに夜勤がない日―つまりは、ほとんど一晩おき―に、わたしがサンタアナのその部屋からカラオケパブ[さくら]に通うことになったのだ。…客のために、あるいは客といっしょに歌う日本の歌など一曲も知らなかったし、酔客をどう扱えばいいかの見当さえついていなかったのに、働きだしてからほんの数週間後には、カラオケシンガー兼ホステスとして、ブティックの店員として得ていた額をはるかに超える収入を手にするようになって、わたしは不思議な気がしてならなかった。

  世界があんなに違って見え始めるなんて…。

  間もなく、セサールとわたしは、遠くない将来にわたしにも日本で働ける―途方もないほど大きな収入を得る―機会がやってくるかもしれないという、以前には夢にも考えられなかった新たな形の希望を胸に抱くようにさえなっていた。

  セサールの復学の可能性について話し合うことが二人の楽しみの一つだった。…わたしたちの暮らしはあの時期、以前のどんなときにもまして、希望にあふれていたのだった。

          ※

  あれからまた、いろんなことが、起こりすぎるほど起こった。

  〈それとも…〉。わたしは狭い階段に難渋しながら、自分の重いバッグを二階の寮へ運び上げようとしていた。〈これからもまだ?もっと辛い何かが?〉

          *

    <7>につづく