~あるカラオケシンガーのメモワール~ <4>

第4話 ~フィリピン~ 一九八四年八月 <4>

  (このストーリーはフィクションです。作中の人物、企業などはすべて作者が創作したものです)



       〈四〉 



  〔ママ〕リサがやっと高野さんとわたしのテーブルに戻ってきてくれた。

  「ねえ、あなたたち、何をしているの?だれかのお葬式、これ?」。リサは高野さんの肩をぽんとたたいた。「何度も言ったでしょう、高野さん?ここに来たときは、別れた奥さんのことなんか思い出しちゃだめだって。分かった?」

  わたしはたちまち迷ってしまった。…リサが浮かべていた大きな、意味ありげな笑みのせいで、高野さんが本当に離婚した人なのかどうかの判断がとっさにはつかなかったのだ。

  「それはないだろう、リサ」。そのときまで見せたことがなかった明るい笑顔で、高野さんは応じた。「僕が彼女のことを恋しがっていたっていうの?そんなふうに見える沈み込み方を僕がしていたって?」

  高野さんとわたしは、実は、フィリピン経済について―というのが大げさすぎるなら、人々の暮らしの現実について―話していたところだった。だから、二人の会話に明るさが欠けていたとしても、それは仕方がないことだった。

          ※

  わたしに合わせるつもりで高野さんがそんな話題を持ち出していたのだなんて、あのときのわたしは気づきもしなかった。リサがわたしのことを高野さんに〔とても頭のいい友人〕だと―それも〔見かけがきれいだというだけではなく〕という注釈つきで―紹介していたことを知ったのはずっと後になってからだった。あのとき、そんなふうに紹介されていたことを知っていたら、わたしは恥ずかしさで、まともに顔を向け合いながらあの人と話すことなど、とてもできていなかったに違いなかった。

  「ねえ、高野さん」。リサが笑いを抑えながら、大きな声で言った。「わたしたちが知り合ってから、もう三か月以上が過ぎているはずよ。それに、あなたは毎日のようにここにやって来る。なのに、あなたはまだ、別れた奥さん、由実さんのことでわたしにやきもちを焼かせようとする…。何てことでしょう。わたし、信じられない!」

  「これは大変だ」。高野さんはリサに負けない大仰さで応えた。「君は僕のことを好きになっていたわけね?そうとは知らなかったよ。そんな素振りはこれまで、君は少しも見せなかったと思うけどな」

  高野さんは、ほんの少し前までとはまったく違った人に見えていた。

  そばでかなりの時間を過ごしながら、高野さんにこれといって愉快な思いをしてもらっていなかったことに改めて気づいて、わたしはまたひどく恥ずかしい思いをしていた。

          ※

  リサと高野さんは、いわば、〔会話のための会話〕を愉しんでいるはずだった。でも、まるで長年つきあいつづけてきた親しい友人同士ででもあるかのように、互いが芯から親しみ合っていることもまた、疑いなかった。

  リサは自由に、意のままに、自分の役割を演じきっていた。彼女には、この世界では、そんなふうに自分の仕事に円熟することが自分の暮らしを良くすることなのだ、ということが分かりすぎるほど分かっていた。

          ※

  リサには一人、六歳の娘がいた。

  十八歳の若さで結婚したあとリサは、夫のリカルドがメトロ・マニラで―あのころにはもう三店に増えていた―二人の美容院を経営するのを、経済的にだけではなく精神的にも、ずっと助けてきていた。二人は、すこぶる裕福、というわけではまだなかったけれども、それでも、パサイシティーのバクラランに、二人が娘と暮らしていくに十分な大きさの家を買って住むほどには豊かだった。

  幸運なことに、忠実に協力してくれる夫がリサにはいた。支えなければならない家族や親類の数も少なかった。

          ※

  ずいぶんな違いようだった。

  わたしは夫、セサールに裏切られていた。夫はマニラで女たちと遊びまわって、わたしが福岡から送ったお金を使い果たしてしまっていた。

 生まれて初めて雪を見たのが福岡だった。一月の凍えるように寒い晩だった。街角にたたずみながらわたしは、暗い空からネオンの明るみの中に降り落ちてくる雪を長いあいだ見上げていた。最愛の者たちから遠く引き離された、さびしい、孤独な、日本への初めての旅だった。

          ※

  マニラ市と隣接する首都、ケソンシティーの、あるジュニアカレッジに入学したわたしがリサと知り合ってから、六年が過ぎていた。…リサは、わたしがたまたま身を投じた、小学校をドロップアウトした市内の子供たちにわずかでも学習の機会を与えようというボランティア活動の、熱心な指導者の一人だった。

  リサはたちまち、わたしの一番親しい友人になった。聡明で思いやりがあって、思慮深い女性だった。それに、ただただ驚くしかなかったのだけれど、彼女はあのころすでに、メトロ・マニラで最高のカラオケシンガーの一人でもあった。

  リサ自身が一度話してくれたところによると…。数々の歌唱コンクールで優勝したリサがセミプロの歌手としての暮らしを始めたのは、彼女が十五歳のときだった。彼女はいたるところで、ディスコのステージに立った。すぐに広く名が知られるようになった。知られてきた名をかしこく利用して、彼女は次に―かなりの収入増が見込める―カラオケシンガーに転身した。実際、ホステスとしての能力にも恵まれていたこともあって、日本のタレント・プロダクションが彼女に払うお金は、間もなく、彼女自身の期待をも超えて、業界の最高水準に達したのだった。

          ※

  リサは四年間かけて、なんとかジュニアカレッジを卒業し、経営学のサーティフィケートを取得していた。…六か月間契約の、カラオケシンガーとしての仕事を、日本でその間に三回もやりとげながらのことだった。

  わたしはだめだった。

  若いときからずっとつづけてきた船乗りの仕事から父が引退していなかったら?あるいは、セサールに出会っていなかったら?…事情は違ったものになっていただろうか。

  父はあのころ、船での仕事が手におえないというほど年老いていたわけではなかったけれども、おなじ仕事を求める多くの青年たちの若さには太刀打ちできなくなっていたし、セサールは、自分の将来の学費を稼ぐために、マカティ市にある、ある高級ホテルの中のレストランで一日中ウェイターとして働かなければならない状態だった。

  わたしが、二人を経済的に助けたい、と言い出したのだった。…最低限のことしかできないことはちゃんと分かっていたのだけれど、二人のために何かがしたくてならなかったのだった。

  両親は事あるごとに心底からわたしに感謝してくれたし、セサールは仕事をパートタイムに変えてもらい、また大学に通い始めて、満ち足りた日々を送っていた。

  わたしにとっても、充実した、幸せな時期だった。

  どんな形にしろ、いつか、自分の退学を後悔するときがくるかもしれないなんて、あのころのわたしには想像さえできなかった。

          ※

  「タラガング タラガ(まったくね)、リサ」。突然、高野さんがリサにタガログ語で話しかけた。「パグサヤング ナング パナホン イヤン(それは時間の無駄だったね)。そんなマハラガング カトトハナン(重要な真実)はもっと早く、サナイ サビヒン モ サ アキン(僕に告げておいてほしかったな)」

  あの人はタガログ語と英語の混成語〔タグリッシュ〕をゆっくりとしゃべった。どちらかといえば、英語ふうの発音だったけれども、意味は十分に理解できた。

  「ほら、トゥリーナ、信じられる?」。高野さんがタガログ語を話すことを知ってわたしが驚いているのを見たリサが大仰に感心して見せた。「三か月やそこらしかマニラに住んでいない外国人が、わたしたちの言葉をここまで話すのよ!」。その外国人が自分の親友だということが誇らしかったからだろう、リサは頬をゆるませていた。「それも、親切に、ていねいに教えてくれるガールフレンドもなしに!」

  高野さんは恥ずかしげにほほ笑むと、テーブルの上のタバコの箱に手を伸ばした。

          ※

  「フィリピンに来る前に自分で勉強したんダッテ」。リサはわたしにそう言ってから、高野さんの方に向き直った。「ねえ、日本で何か月間勉強したんだったっけ?」

  「二か月間足らずだね」。高野さんは答えた。「でも、実際には、マニラに来てから方が多く学んでいるんだよ。ホテルの自分の部屋で教科書を読んだり、レストランなんかで努めてタガログ語を使ったり…。あらゆる機会を利用してね。そういえば、リサ」。あの人は笑った。「これといった特定の〔親切な〕女性に教えてもらうこともなしに」

  「めずらしいでしょう、トゥリーナ?この人、タガログ語をひとりで本当に真剣に勉強してきたのよ。だけど、この人がどのぐらいこの国のことを知っているかは、タガログ語からだけでは十分には分からないのよ。…たとえば、そうね、フィリピンの映画スターのことだって」

  リサの言葉を聞きながら、高野さんは静かに首を振っていた。

  「ねえ、トゥリーナ、フィリピン一番の男優として、この人、だれの名前を挙げたと思う?」

  「そうね」と言ってみたけれど、フィリピンの映画スターの中からだれか一人を、日本人が〔彼が最高だ〕と選び出せるとは、わたしには思えなかった。…そう言えるところまで高野さんがフィリピンの映画を見ているとは考えられなかった。

  「この人が言うには、一番の男優はエディー・ガルシア、〔ダッテ〕」。リサはむきだしのわたしの肩をぴしゃりと打った。

  「アライ(痛い)!」。そう叫びながら〔異論なし〕と思った。…半数以上のフィリピン人は高野さんの意見に同意するはずだった。

  リサがわたしにたずねた。「じゃあ、女優はどう?当てられる?」

  「まさか、リサ…。ノラ・アウノル、ヴィルマ・サントス、シャロン・クネタの中の一人を高野さんが選んだ、というんじゃないでしょうね?」

  「当たり!」。リサは言った。「この人、ノラを選んだのよ。…シャロンは、まだちょっと若すぎるし、持っている力を見せるのはこれからだというんで、外されたの。ヴィルマは、彼女の、なんというか、一本調子な演技スタイルが物足りないんだって。…ノラは、もし、もうちょっと背丈があったら国際的なスターにだってなれたかもしれないって。そう言って、この人、残念がるのよ。おかしいでしょ?ディバ(そうでしょう)?だって、わたしたちが知っている日本人の中で、この国の言葉や文化にそこまで、そんなふうに、興味を示す人、ほかにいる?いた?…この人のそういうところが、わたし、本当に好き!」

           ※

  高野さんはステージで歌われる歌に聞き入っている振りをしていた。

  音楽のテンポからひどく外れながら、六十代の半ばぐらいと見える日本人男性が一人、悦に入って演歌を歌っていた。老人は、白のショートスリーブのシャツに紺色の無柄のネクタイ、それに、折り目がくっきりしたグレイのズボンという、みょうに整った身だしなみだった。あまり旅慣れていない、日本からの観光客に違いなかった。

  「オジサン、ウタ ウマイナ」。老人のテーブルにいたガイド兼通訳らしいフィリピン人の男が片言の日本語で叫びかけた。…からかい混じりの軽蔑的な調子だった。

  その声がステージまでちゃんと届かなかったのか、からかいが読み取れなかったのか、老人は嬉しそうに手を上げてガイドの声援に応えた。

          ※

  〈マハル キタ(君が好きだ)〉をほとんど唯一の例外として、克久はわたしの国の言葉を学ぼうとしたことがなかった。…タガログ語の映画に限らず、フィリピン文化への関心はまったく示したことがなかった。

  克久が最後に電話をかけてきたときから四か月以上が過ぎていた。手紙がこなくなってからも七週間近くが過ぎていた。

          ※

  「オイ イカウ(ねえ、あなた)」。精一杯に明るい声をつくってわたしは高野さんに話しかけた。「いったいどんなふうにして、この国の映画スターのことにそこまで詳しくなったんですか」

  「マラミング シネ(たくさんの映画館)が町中にあるじゃない。マニラでは映画が人々の最大の娯楽なんじゃないかな。で、その娯楽を求める人たちに混じって映画館に出かける時間が僕にはあり余っているからね。…とにかく映画をたくさん見てきたよ、この数か月間は。いや、次に日本に行ったときに、君も何度か日本の映画を見たらいいよ、トゥリーナ。映画の中の会話があまり分からなくったって、どんな演技をしているかで、いい俳優と悪い俳優は見分けがつくものだよ。それに、フィリピンの裕福な家庭では普通に見られることらしいけど、こちらの映画では、登場人物が日常会話によく英語を混ぜてくれるから、それが筋の展開を理解する助けにもなるしね」

   「この人…」。リサが言った。「これまでに、もう数十本という数の映画を見たんだって。何のためかっていうと…。フィリピンとフィリピン人のことをできるだけ理解するため、ダッテ。ソウデショ、高野さん?」

  あの人は、なぜか、リサの問いに答えなかった。

  「だけど、トゥリーナ」。急に声をひそめてリサは言った。「そこのところに二つばかり、気に入らないことがあるのよね、わたし」

  「何かしら、それ?」

  「そうね…」とリサは答えた。「まずは、どういうわけでそこまでフィリピンのことを知りたいのかをこの人がちゃんと話してくれないこと。二番目は、もっと大事なことだけど…」。彼女の顔にまた、いたずらっぽい笑みが浮いた。「この人が映画を観るとき、わたしがいっしょだったことがないこと!」

  「よくまあ、そんなことが言えるね、リサ」。高野さんは笑いを吹き出しそうになりながら言った。

  「映画に行かないかって僕の誘いを何回断ったか、ここでトゥリーナに白状してもらいたいもんだな。…それに、食事もね。断ったことはない、とは言わないだろう?」

  間違いない。あの瞬間の高野さんの声はとても明るかった。

  けれども、ほんの一瞬あとにあの人の目の中にわたしが見たものは違っていた。リサから視線をそらせるあの人の目に浮かんでいたのは、驚くほど深い孤独の影だった。

  高野さんが吐き出したタバコの煙を見つめながら、わたしはぼんやりと、リサは、たぶん、自分が結婚していることを高野さんには告げていないんだ、二人はそういうことを話題にしたことがないんだ、と考えていた。

          ※

  「イラッシャイマセ」。マネジャー、マヌエルの大きな声が聞こえた。  自分の馴染み客の入店を見逃すようなことがあってはいけないといった具合に、店じゅうの女たちがいっせいに入り口に視線を向けた。

  自分はパンギットな(醜い)女だから、ほかの人以上に頑張らなければ、というのが口癖のリサが新たな客を迎えようと、満面に笑みをたたえながら立ち上がった。

  きれいだった。魅力的だった。…そんなときのリサは体の芯から輝いて見えるのだった。

          *

     <5>につづく