~あるカラオケシンガーのメモワール~ 第5話 

第5話 ~フィリピン~ 一九八四年八月 <5>

      〈五〉



  高野さんは午前零時を少し過ぎたころに店を出て、滞在しているホテル[エルミタ・アパートメント・イン]に帰っていった。

  ホテルは[さくら]から歩いて行き来できるところにあったし、あの人が〔心配ない〕と言いきったので、わたしは、タクシーを使うように、と何度もくり返しては言わなかった。

          ※

  「気分が悪いんじゃない、トゥリーナ?」。タガログ語でリサがたずねかけてきた。店の裏の小部屋で化粧を落としているところだった。「こんなことを言ってごめんなさいね。でも、あなた、ずいぶんひどい顔になっている。…やっぱり、疲れたのね?」

  「ええ、とっても」。壁にかかっていた円い鏡の中に、目の下に濃い隈ができた、ぞっとするような自分の顔があった。

  「二年近くも夜の仕事をしていなかったからね」。リサはほとんどため息混じりで言った。

  「長い長い二年間」。わたしはつぶやいた。

  「でも」。リサは言った。「今夜そんなに疲れてしまったのは、そのためだけなのかしら」

  「このところ、ずっと、あまり眠れないの」

  「そう。…ボーイフレンドから最近、何か言ってきた?」

  リサは、克久という彼の名を使わなかった。彼がわたしに妊娠中絶手術を受けるよう執拗に求めていることを知ったとき以来、リサは彼の名を口にしたことがないのだった。

  「あの人からは、何も」。わたしは答えた。「わたしの方からは何度も電話をかけているんだけど、いつも、相手はアンサーリング・マシーン」

  「もちろん、あなたはメッセージを残すんでしょう?」

  「ええ。でも、返事は一度もなかった。…あの人の電話機で呼び出し音がし始めるでしょ。そのとき、わたしがどんなふうに感じるか、リサ、分かってくれる?」

  リサは大きくうなずいた。「ええ」。偽りのない、深い同情がこもった声だった。

  「しばらくすると、あの人の声が聞こえてくる。…録音されたあの人の声が。声は聞こえているのに、話せないの」

          ※

  涙が頬をつたわり落ち始めていた。

  「ときどきね、あの人がアンサーリング・マシーンのそばにいてわたしの声を聞いているって、はっきり感じることがあるのよ。…そう感じるの。わたし、〈お願いだから、受話器を取って〉って胸の中で叫ぶんだけど、あの人は応えてくれたことがない」

  「いろんな時間帯にかけているの?つまり、たとえば、彼が確実に家にいそうな早朝だとか」

  「こんなことを言うと、愚かだと思われること分かっているのよ。でも、あの人が眠っているかもしれない時間には、わたし、かけないことにしているの。遅すぎたり早すぎたりする時間は避けているの」

  「愚かだなんて思わないけど、トゥリーナ、彼とどうしても話さなければならないんでしょう?…何が何でも?」

  「そうなんだけれど…。電話であの人を目覚めさせるわけにはいかないの。あの人の眠りをじゃまするなんて、できないの。東京にいたとき、あの人はいつもとても優しかった。でも、眠りから覚めきっていないときだけは違っていたの。わたし、知っているの、あの人が目覚め悪い人だってこと」

  「トゥリーナ、わたしはあなたのそんなところが好きだし、あなたを傷つけたくないんだけど、これだけは言わせてね。〈あんまりロマンチックに考えない方がいい〉。もうはっきりしてると思わない?彼の気持ちはすでに、どこかよそにあるの。気がつかなくちゃいけないわ。あなた自身のためだけじゃなく、ユキのためにも。…彼とは戦うときがきていると思わない?」

          ※

  小部屋に残っているのはリサとわたしだけだった。

  建物の中でする音といえば、二階の―そこに用意されている木製のベッドにわたし自身もあとで疲れきった体を横たえることになっていた―寮からときおり聞こえてくる女たちの笑い声だけだった。

  「リサ、わたしがあんなふうに言ったのは」。わたしはつぶやくように言った。「ロマンチックに考えているからではなくて、たぶん、自分を克久に軽く見られたくないからだと思う。わたしね、あの人の、そんな癇癪にはもう耐えられないんじゃないかって感じ始めているの。目覚めたくないときに起こされてしまったというだけであの人がわたしを叱るのを黙って聞いているなんて、もうできないんじゃないかって…。そんな扱いを受ける以上の値打ちが自分にはあるんじゃないかって…」

  そう話しているあいだにも、わたしの疲れはひどくなっていた。

  「もちろんよ、トゥリーナ」。リサは力を込めて請け合ってくれた。

  「あの人にきっかけを与えて、それで自分が怒ってしまうわけにはいかないでしょう?わたしの方が堪忍袋の緒を切るわけにはいかないでしょう? もしわたしが我慢できなくなったら、ユキはどうなるの?かわいそうでしょう? 子供の父親をまた、ここでも、失うわけにはいかないでしょう?テレサがすでに、そうなってしまっているというのに」

  「そのとおりよ。でも…」。リサはそこで言葉をとめた。セサールが突然、テレサを引き取ると言い出した二年以上も前の一夜のことを思い返していたのかもしれない。…セサールとわたしの仲を元に戻そうと彼女が膳立てした話し合いがそれまでにはなかったほど醜い言い争いに転じてしまったおぞましい、長い夜のことを。

          ※

  「一生のうちに二度もそんなことがあっちゃいけないもの」。リサの耳にかろうじて届く程度の小さな声だったはずだ。「だから、あの人が自分の子供に、ユキに、ちゃんと目を向けてくれるように、わたしはあの人にできるだけ優しくしているつもりなの。あの人を失ったんじゃ、ユキに申し訳ないでしょう?あの人がいまはどんなにひどい人でも、いつか、きっと…。わたし、リサ、精一杯に戦っているつもりよ」

  「確かに、あなたは戦っている」。リサは応えた。「でも、わたしの目には、あなたは彼とではなく、あなた自身と戦っているように見える。ほら、彼からきた最後の手紙に何と書いてあった?〈仕事が忙しくて、考える時間が十分に取れない〉だったんじゃなかった?トゥリーナ、あんなでたらめな言い訳に耳を貸すような隙を見せちゃいけないんじゃない?もっともっと強くならなければ…」

  「やめて、リサ。お願いだから」。耐えているだけの時期はもう過ぎているのかもしれないという思いはわたし自身にもあった。でも、もう一度日本に行って、克久に会って、直接彼と話せば、事はましに展開するかもしれなかった。…そうなる、とわたしは信じたがっていた。

  リサは静かにうなずいた。「ごめんなさいね、トゥリーナ。わたし、余計なことを言ったかもしれない」

  「いいえ、そんなことはないわ。いつも優しくしてくれるから、わたし、本当にありがたいと思っているのよ。でも、いまは少し時間をちょうだい。ユキのためになるように、きっとうまく解決して見せるから」

  解決するための方策なんかまったく見えていなかったのに、わたしはリサにそう言いきっていた。

          *

     <六>につづく