Andy Eguchi 小説 ~あるカラオケシンガーのメモワール~

 

    

第1話  ~フィリピン~ 一九八四年八月 <1>

 <1> 



  「何も…。メトロ・マニラをただ歩き回っているだけ。たぶん、何か…」

  高野さんは答えの途中でためらった。そのためらいが唐突に苦笑に変わった。「何かを探しながらね。…その〔何か〕がいったい何なのかは、トゥリーナ、自分でもまだよく分かっていないんだけど」

  〈で、高野さん、マニラではどんな仕事をされてるんですか〉という型どおりの、わたしの最初の質問に、あの人はそう答えたのだった。

          ※

  あのころのマニラは、経済不況がつづく中、望む暮らしが立てられない人々が、他人を押しのけてでも自分の道だけは開きたいと互いに激しくせめぎあっている、豊かな者が持っている以上にほしがり、貧しい者がどこかで何かの分け前にあずかろうと必死になっている、混沌とした大都会だった。

  そんなフィリピン人たちの目の前で、ビジネスや観光を目的にマニラにやって来ている、アメリカ人やサウディ・アラビア人、それに日本人などといった外国人たちは、それぞれに母国の強い経済力を見せつけながら、自分たちだけに与えられた、つまりは、大半のフィリピン人には手が届かない、あらゆる特権を十分すぎるほど楽しんでいた。

  高野さんもそんな外国人の一人だった。あの人に限っては自分のほしいものを追い求めてはいけない、という理屈はなかった。だから、仮に、あの人があのとき、たとえば、〈実は、情婦にするフィリピン女をマニラで探しているのだ〉と告白していたとしても、わたしはひどく驚いたり、格別にいやな思いをしたり、ましてや、あの人を咎めたりはしていなかったはずだ。

          ※

  どうしようもないほど湿気の高い夜だった。天井から吊り下げられたスピーカーの背後に壁高く取りつけられたエアコンが機能いっぱいに作動しているのがありがたかった。…いや、温度がもう少し高めに調整してあったなら、エアコンへのわたしの感謝はいっそう大きかったかもしれない。ほかの女たちと変わりなかったのだけれど、店が用意していた数種類の、思いきり安っぽいデザインのユニフォームのうちの一つ、胸のところに黒のフリルがついた、肩がむき出しの、赤いミニのワンピースドレスを着せられただけのわたしには、部屋の空気がちょっと冷たすぎたから。

          ※

  わたしはテーブルの上の、高野さんのマンゴジュースのグラスを見つめていた。…あの人と何をどう話したらいいかがまったく分からずにいた。まるで、その夜初めて働きに出たカラオケホステスででもあるかのように、あの人の目をまともに見ることさえできずにいた。

  でも、わたしは、自分がそんなふうに当惑しているのは、店に出て客の相手をするのがほとんど二年ぶりで、気持ちがどこかで〔初めて〕のホステスのものと似たものになっていたから、だけではないことに気づいていた。一方でわたしは、わたしの問いに答えた際に高野さんが見せた奇妙な苦笑に変に深く気を奪われていたのだった。〈この人はなんであんなふうな、自分を侮蔑するような苦笑を見せたんだろう〉〈あれは、この人が本当にしたかった返事ではなかったんじゃないか〉といったふうに。

  けれども、わたしは高野さんに苦笑のわけはたずねなかった。その苦笑の裏に、他人の干渉を拒むような深い孤独の影が見えていたからだった。

          ※

  「メトロ・マニラを歩き回っているって、それ、一人きりでなんですか」。長く途方に暮れたあとにやっと思いついた、わたしの二つ目の質問だった。…マニラの街中を外国人が一人で歩くことがいかに危険であるかを当座の話題にするつもりでした質問だった。

  でも、すぐに、そんな質問はするべきではなかった、とわたしは思った。それが〈これからはわたしが案内してやりましょうか〉と申し出てでもいるかのような印象を与えかねないことに気づいたからだった。

  本当に困りきっていた。一人の客―高野さん―とわたし自身とのあいだに精神的な距離をどれほど置けばいいかが、わたしにはまるで分かっていなかったのだ。

          ※

  助けてもらいたい一心で〔ママ〕リサの方に視線を向けた。

わたしを高野さんに紹介したあとすぐに、リサは店の奥に設けられている小さなステージに駆けのぼっていた。ほかの女たちとは異なって白のロングドレスに身を包んだリサは、ちょうど、台湾の名高い女性歌手が日本で大ヒットさせた流行歌[ツグナイ]を歌っているところだった。…おかしな現象だった。あのころは、フィリピン国内でであれ日本に出かけてであれ、日本人を相手に少しでも多くお金を稼ぎ出したいと念じるフィリピン中のカラオケガールたちが、この曲をマスターしようと躍起になっていたのだ。ほとんどの者がわたし同様に、歌詞どころかタイトルの意味さえ理解していなかったのに。

          ※

  「そうだね」。やはりリサの方を見やりながら、高野さんは答えた。「たいがいは一人でね」

  幸いなことに、わたしの二つ目の問いをあの人が誤解したような様子はなかった。…あの人の関心は半分ほどがリサの歌に注がれているようだった。

  わたしはあの人に「ソレ アブナイデスヨ」と日本語で言った。

  実際、メトロ・マニラが安全な場所だと外国人―ましてや、フィリピン人同伴者のいない外国人―に保証できるフィリピン人などどこにもいないはずだった。しかも、高野さんにとって状況はいっそう悪いものになっていた。その外国人の中でもスリや窃盗、強盗などといった犯罪の危険に一番さらされているのが日本人だった。…街路にたむろする不良やならず者たちにとっては、どんな場所にでも多額の現金を持って出かけるくせに、フィリピンの公用語の一つタガログ語はもちろん、ちょっとした助けを求めるために必要な簡単な英語さえ話せない、そのために、被害を警察に届けることに二の足を踏む日本人ほどターゲットにしやすい集団は、たぶん、ほかにはないのだった。

          ※

  「ああ、そうかもしれないね」。高野さんは言った。…まるで、そんな危険を胸のどこかで楽しんでいるかのような口調だった。「実を言うとね、トゥリーナ、これまでにも、町でたまたま出会った人たち―サンタクルスの高校生や首都ケソンシティーの商店主といった人たち―にも、メトロ・マニラを一人で歩き回らないようにと、何度も警告されているんだよ。〈国が経済的に行き詰まってからは自分たちの日々の暮らしでさえますます危険なものになってきているんだから〉って。〈このごろ、特に、ニノイ・アキノ元上院議員が昨年暗殺されてからというものは、犯罪が増えるばかりだし、人々の道徳や倫理は低下する一方なんだから〉って」

  〈そうだ〉と思った。わたしたちの大統領は、国民に必要なことは何もしないどころか、国民の暮らしをよくするために欠かせない外国からの援助資金の多くを私腹に収めることで、国民の首を絞め、国民をほとんど死なせかかっている、と陰で言われている人だった。だから、皮肉な言い方をすれば、その国民が、大統領にならい、たがいの首を絞め合うようになったとしても、それは格別に不思議なことではなかった。…まして、外国人が相手なら。

          ※

  「本当に危ないんですよ。でも…」。会話を途切れさせたくなかったわたしは、胸の片隅の気がかりを押し殺して言った。「高野さんはだいじょうぶみたい。なぜって、あなたはなかなかいい英語を話されますから。混乱したこの国で外国人が生きていくためのいい道具になると思いますよ、それ」

  くつろいだものにはまだほど遠かったけれども、わたしの言葉はいくらか滑らかなものになりかかっているようだった。

  「そうかな」と高野さんは応えた。

  「ええ、トトオ (ほんとです)」。わたしは請け合った。「…とてもいい英語ですから」

  実際にそう思ったのだ。…苦心しながらなんとか英語で話しかけてこようとする日本人客たちにカラオケホステスたちがよく告げる類の、口先だけのほめ言葉ではなかった。

  「ありがとう、トゥリーナ」。高野さんはほほ笑んだ。…まだ少し影がかかった笑みだった。「自分がどこにいるんであれ、どんな混乱にも負けず、なんとか生き残っていきたいものだ、と自分でも念じているから、その励ましはありがたいよ。それに、この国でたくさんの人たちと友だちになれたのは、確かに、僕が英語を話せたからだよね。…もっとも」。あの人はそこで、ほとんどくすりと笑い出しそうになった。「僕がこれまで危険な目にあわなかったのは、本当は、僕の英語力というよりは〔見かけ〕のせいかもしれないけれどね。ほら、僕は、ふつうの日本人旅行者たちとは違って、あまり目立たない格好をしてるから。違う?」

  「オオ、タラガ (ええ、そうですね)」。たぶん、その夜最初の笑顔を見せながら、わたしは答えた。「ここに住んでいるアメリカ人たちとおなじような…。それとも、むしろフィリピン人ふうの、と言うべきでしょうか。カジュアルで〔あまり高価じゃない〕ポロシャツとジーンズ」

  言葉をとめ、高野さんの姿を横から眺めなおした。「そうですね、確かに、目立たない格好ですよね」

          ※

  高野さんの英語は、あちこちに日本人に特有な発音があったものの、外国暮らしをよく知っていることが感じ取れる、かなり流暢なものだった。…わたしはほとんど信じかけていた。〈自ら好んで向こう見ずなことをしなければ、この人がマニラで危険な目にあうことはないだろう〉

  「デモ…」とわたしは言い足した。「キヲツケテ クダサイ、高野さん。本当ですよ。〔目立たない〕といっても、お金持ちの中国系フィリピン人と間違われて襲われることだって、まだ、ないとは言えないんですから」

  「ああ、そうか。じゃあ、気をつけなくっちゃね」。冗談めかせて、あの人は応えた。

  「わたしは、真剣に言っているんですよ、高野さん。だって、一度知り合った人が、わたしの、この国でけがをさせられたり大きなトラブルに巻き込まれたりするのを見るのはいやですから…」

  もちろん、嘘ではなかった。でも、自分の声があんなに優しげになるなんて、思いもしていなかった。

  「ありがとう」。視線を頑なにリサの方に向けたままのあの人の言葉は、なぜか、とても嬉しそうだった。

 

    <2>につづく

 

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