第198回 消えた「いらっしゃる」

  日本人の日本語力が衰えている、だから、日本人は論理的で整合性がある思考ができなくなっている、というような趣旨のエッセイを「苦言熟考」は書きつづけてきました。
  第193回 ジョシをいじめるとこうなる (2011-03-16) http://d.hatena.ne.jp/kugen/20110316/1300269856
  第191回 「ジョシ虐待」 再び (2011-02-26) http://d.hatena.ne.jp/kugen/20110226/1298678951
  第186回 なんで「行かす」「食べさす」なの? (2011-01-13) http://d.hatena.ne.jp/kugen/20110113/1294879909
  第180回 聞いていられない 読んでいられない (2010-11-27) http://d.hatena.ne.jp/kugen/20101127/1290833383
  第167回 何度でも言います 日本語をいじめないで (2010-08-08) http://d.hatena.ne.jp/kugen/20100808/1281229375
  これぐらいにしておきます。忙しい方は<第180回>か<第167回>だけにでも目を通してください。
  さて、東日本大震災に関して<菅政府の情報の出し方が遅い>という批判があります。その通りだと思います。いえ、ただ<遅い>だけではなく、放射能に汚染された水を海に放出した際に近隣諸国などへ事前の通報を怠ったことなどに表れているように、しばしば<稚拙>だとさえ感じます。
  ですが、野党や報道機関は<遅い>と批判、あるいは非難しているだけで、いつものことながら、なるほどとうなづけるような対案を出しません。いえ、野党や報道機関もそんなものは出せないのだと思います。
  なぜなら、彼らもまた、政府とおなじように、建設的な対案が出せるだけの日本語力を備えていないから、です。
  一つの文をきちんとまとめることができない頭でまともな思考ができるわけはありません。正しい情報を、それが求められているところに、迅速かつ着実に届けることなどできません。そもそも、そんな頭では、何が欠けているかが分からないのですから。
  残念なことながら、それが、いまの日本の現実だと思います。
  仮に、いま、この時期に政権を握っていたのが自民党だったにしても、あるいは、小沢一郎氏を代表とする民主党だったにしても、菅政府よりましな情報提供ができていたとは思えません。日本語を劣化させつづけてきた日本人の情報伝達能力は、総じて、その程度なのです。
  ああ、そうそう、石原自民党幹事長…。この人は先日、国会で、菅首相のことを<人間的に問題がある>というふうに言い放ちましたよね。ですが、3月11日の大震災を<我欲にまみれた日本人への“天罰”だ、つまりは、津波に飲み込まれて死亡した人たちは我欲の罰を受けたのだ>と事実上ノタマワッタ実の父親、石原東京都知事に対して何の批判も非難もしないどころか、そんな父親に都知事選挙に再出馬するよう懇願したのはだれでしたっけ?自分(と、数十年間にわたって同様の暴言・妄言をくり返している父親)には<人間的に問題>はなかったのでしょうか?
  日本語を論理的に述べられない頭脳からは、自分を省みない、こんな程度の浅はかな他人批判・非難しか出てこないものです。しかも、いまは、ほとんどの政治家・報道機関がこんな程度の頭になっているのです。不幸な現実です。
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  さて、今回のテーマ…
  「いらっしゃる」という言い方をあまり聞かなくなったと感じませんか?
  たとえば、以前は「ああ、元気でいらっしゃったのですね」と言っていた場面では、いまはほとんどの日本人が「ああ、元気でおられたのですね」と言いますよね。「いらっしゃった」は死語同然になっているのです。
  問題は「おる」か「いる」かです。
  そこで「ああ、君、そこにおったのか」と「ああ、君、そこにいたのか」を比べてみると…。「おったのか」の「おる」には「他人の動作を卑しめののしる語」(新潮国語辞典))としての意味合いがどうしても含まれてしまいます。だから、「おったのか」と言われれば、自ずと、いくらか蔑まれたような気がしてしまいます。
  「はい、ずっとここにおりました」と「はい、ずっとここにいました」では?「おりました」は「自分を卑下する語」です。ですから、たとえば、上司などには、ふつうには、こう返事をしますよね。
  だとしたら、「元気でおられたのですね」の「おられた」は?これは実に落ち着きが悪い表現です。本来は純粋に尊敬語(「いられた」「いらっしゃった」)を使うべきところに「他人の動作を卑しめののしる」言葉=「おる」が混在しているからです。“上下の関係”意識がここでは乱れているからです。
  日本語から“上下の関係”の意識をなくすことはできません。日本語文化がそうなっているのです。ですから、この“上下の関係”は封建的だから廃するべきだ、と意気込んでいるわけでもない人たちが「いる」「いられる」「いらっしゃる」を廃して「おる」「おられる」を急に偏重するようになった理由が分かりません。
  「いられる」という言葉を「おられる」に置き換えてしまったために、日本人は「いらっしゃった」ともほとんど言わなくなってしまっています。「おらっしゃった」という醜い言い方は時代物のドラマの中などでたまに使われるだけだ、というのが、まあ、せめてもの救いです。