第261回 なんで「もちろん」なのだ?

  衆議院議員選挙の投票日が近づいているというのに、どの政党も、とりあえず票が集められそうなテーマを声高に叫ぶだけで、それをどう実現するかについては何も告げませんし、さらに情けないことには、いまの日本が抱えている最大の問題であるはずの“少子高齢化”については、事実上、触れてさえいません。
  政治が“大局”を語ることができなっている現状に辟易させられています。
  【時代の風:人口減国家の債務解消=仏経済学者・思想家、ジャック・アタリ】(毎日新聞 2012年12月23日 東京朝刊)<日本にとって一番の問題は人口だ。この問題こそ国民的議論が必要だ><人口が減少し続けると、歯止めがきかなくなるかもしれない。急降下する飛行機に墜落しない保証がないようなものだ。人口政策には、比較的少ない人口での安定、出生率向上、移民受け入れ、女性の労働参加率向上などの戦略がある。人口増加には住宅政策や家族手当など、あらゆる社会政策が必要だ。だが私の知る限り、今回の選挙で人口政策は重要な争点にはならなかった。そのことに驚いている>
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  ロサンジェルスで発行されている邦字新聞「羅府新報」(http://www.rafu.com)の「磁針」というコラムに、ほぼ毎月一度のペイスで一文を寄せています。今回は、その「羅府新報」に12月4日に掲載されたものを転載することにします。
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  1988年の秋ごろだったと思う。今年の文化勲章の受章者の一人、映画監督の山田洋次氏がロサンジェルスにやって来て、自らの新作(早坂暁氏の自伝的小説が原作)の映画「ダウンタウン・ヒーローズ」の試写会を行ったことがあった。ウィルシャー・ブルヴァード沿いの劇場でだったと記憶している。
  予期しなかったことが起こったのは、試写会が終わったあとのロビーでだった。映画を見終わって寛いだり、飲み物を楽しんだりしていた招待客の中の一人の、地元の映画担当記者だと思われる男性が声をかけてきたのだ。わたしが首から下げていた記者章を見てのことだった。男性は「あなたは日本人か。そうだったら、ちょっと尋ねたいことがあるんだが…」と切り出した。
  質問の内容は「映画の終わり近くで、(松山高等学校の生徒である)主人公(洪介)は、長く思いつづけてきたマドンナ(房子)と相思相愛の仲になったはずなのに、英語の字幕では最後に<もちろん、二人は結ばれなかった>とあった。なぜ<もちろん>なのだ?結ばれるのが<もちろん>なのではないか」というものだった。
  「あの(旧制高等学校があった)ころの日本では、学生時代の(初)恋はふつうは実らないものだ、という共通の了解があったのだ」というような説明をすると、その男性は、半ばだけ理解できた、という表情で去って行った。
  驚いたのは、おなじ質問をしてきたのがその男性一人だけではなかったことだ。「もちろん」というのは誤訳ではなかった。大方の日本人には素直に理解できるナレイションだった。だが、この映画を観たアメリカ人にはそれが分からないとなると…。
  そんな質問を複数回受けたことを山田監督に伝えておく方がいいと思った。周囲の招待客との話が途切れたときに監督に声をかけた。監督は、あ!、というような表情を見せたあとで、字幕では「しかしながら」としておくべきでした、とつぶやいた。
  文化を他国に伝えるというのは、思いのほかに、難しいものだ。
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