第255回 ニコティンというやつは

  ……タバコを吸いたくなった。目の前には、金属製の円形の、スタンド状の灰皿もある。箱からタバコを一本取り出し、火をつけようとして、気がつく。ここはロビーだ。劇場か映画館のロビーだ。こんなところでタバコを吹かすのはマナー違反じゃないか。でも、灰皿が用意されているな。タバコの煙を心地よさげに吐き出している者もたくさんいる。タバコの匂いが周囲を満たしている。このごろでは、こんな場所はほとんどが喫煙禁止となっているはずなのに。
          −
  だれかが「UCLAのゲイムが始まるよ」と声をかけてくる。フットボールの試合だ。劇場などでしか見られないような厚手のドアを開けて競技場の中に入る。二階席だ。たしかに、フットボールの試合が、普通なら劇場の一階席に当たる場所で戦われている。なんだか変だ。バルコニーの立見席の一番前に進み出てみる。だが、周囲に人が押し寄せてきて、階下の試合が見られなくなる。
          −
  やっぱりタバコを吸うことにしようと、ロビーに戻る。前と同じ場所はやはりまずい。気が引ける。少し移動してみる。けれども、どこもかしこも喫煙者だらけだ。仕方がない。俺もここで吸うことにするか。
          −
  まて、と思う。俺はずっと前からタバコは吸っていなかったはずなのに!いつの間にか再び喫煙者に戻っている!
  それでも、自分のタバコに火をつける。思い切り煙を吸い込む。そう、この味、この香り。だが、やはり、何かがおかしい。俺が再びタバコを吸っている?
          −
  そこで目が覚めた。数日前のことだ。
  いつもと同じパターンの夢だった。…ふとタバコを吸う気になる。これだ、うまい、懐かしい、などと思う。だが、変だ。ずいぶん前に、俺はきっぱりとタバコをやめたはずだ!ああ、なんてことをしてしまったのか!せっかくやめていたのに!…そこで目が覚める。
          −
  わたしがタバコとの悪縁を切ったのは1986年の暮れのことだ。風邪をひいて、タバコのやにで黒くなった痰がからむ咳にひどく苦しんだことがきっかけだった。
  怖い、怖い。ニコティンがほぼ26年後のいまも脳のどこかに残っているらしい。