第237回 韓国のドラマをあまり見なくなりました

 経済を大発展させてきた韓国にも、その将来を心配しなければならない現象が見え始めているようです。
 韓国の新聞社などによると、最大の懸念材料は、日本とおなじく、遅かれ早かれ、少子高齢社会が到来することが明らかであること。
 それを補うために、韓国では、企業や大学などが、高度の技術や知識を持つ外国人の受け入れに(日本よりはうんと)積極的に取り組んでいるそうですが、予想される人口減少は、とてもそれだけでは埋め合わせができるようなものではない、と見られているようです。
 生産を担う労働者が減る。生産物を買う消費者が減る。
 高齢者の“老後”を支える若者の数が十分ではなくなる。
 朝鮮人民人主主義共和国(北朝鮮)との統一を願う人たちの中には、北に住む2,500万人といわれる人口を吸収することで、将来の人口減に対処できる、と考える人も含まれているかもしれませんね(もっとも、東西ドイツの統一から学んだのだから、南北統一に付随するはずの混乱は大きなものにはならないだろう、といいきれる人は少ないようですが…)。
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 そんな大きな話は横に置いておいて、卑近なところに目を移しますと…。
 韓国経済がこれ以上は発展しないのではないかと危惧しなければならない理由が、韓国のテレヴィ局(KBS WORLD)が制作するドラマの中にも見えるような気がしてならないのですよ、わたしには。
 韓国ドラマの質はここのところの数年間でずいぶん低下したように見えます。…というのが言いすぎなら、あまりに“進化”していない、と言い換えてもいいでしょう(いえ、韓国語を聞き取ることはわたしにはできませんが、英文字幕を読むことで、かなりという程度までは、ストリーを理解することができている、と思っています)。
 さて、KBSで見る限りでは、韓国のドラマは三つの枠で制作されているようです。第一は、月曜日から金曜日まで、毎夜7時20分から35分間ほど放送されるもの。第二は、月・火と水・木のそれぞれ二日間に、夜9時(同)から10時10分ごろまで放送されるもの(いずれもフィリピン時間)。第三は、金曜日の夜のスペシャルと週末の夜の歴史ものになりますが、それにはここでは触れないことにします。
 ドラマの質が低下していると感じる理由は…。
 月〜金ドラマでは、まず、“偶然”に頼ることが、いまだに、多すぎること。次には、“ひとり言”を多用しすぎること。
 たとえば、登場人物AとBがCに聞かせたくない話をするときに(1)まったく警戒心を見せずに、話す場所を“まさかそんな”というような大っぴらなところにする(2)そこには決まってCかCに近い人物が現れ、AとBの話を立ち聞きしてしまう−のです。脚本家にとっては実に便利な設定で、その“偶然”から話をどのようにも進めることができるわけですが、思慮が足りない者が愚かな判断をしたところに、ふつうではありえない“偶然”が簡単に重なって、話を立ち聞きされ、その愚か者たちがさらに苦境に追い込まれてしまう、という愚かさが何重にもかさなるストーリー展開を毎晩のように見たいと思いますか?
 登場人物が(まるで脚本家や演出家の助手ででもあるかのように)自分が思うところを、それが自宅の居間であろうと、会社の廊下であろうと、路上のバス停であろうと、とにかく、どこであろうと、やたらと、(ほとんどの場合は)大声でひとり言してしまう(のに、そこを通りかかった者たちがまるでそれを怪しまない)ドラマを、あなたは毎日楽しむことができますか?役者の内面の演技で視聴者に「この登場人物はこう思っているのだろうな」と想像させることができずに、とにかく自分の頭の中のストーリーを“ひとり言”として視聴者に押しつける演出家や脚本家をあなたは尊敬できますか?
 恋人や家族と別れて外国に移住することを決めた男(または女)が、搭乗手続きをすませてすでに乗り込んだ飛行機から「気持ちが変わった」といって簡単に降りてしまうというドラマについては、どう思いますか?誰かが降りたいと言いだしたら、航空会社は、まずは、チェックインした荷物に爆発物でも入ってはいないかと疑いますよね。疑って、絶対に、すぐに降ろしてはくれませんよね。いったん貨物室に入れた(おびただしい数のバッグ類の中から)この男の荷物を取り出して調べようとしますよね。大騒ぎになりますよね。涼しい顔で男が恋人に会いに戻るなんてことはありえませんよね、現実には。しかも、一つのシリーズにこんな設定が二度も三度もあったら?“偶然”や“ひとり言”の多用も大問題ですが、このような常識無視のストーリー展開がまかり通るというのも…。
 一方の夜9時台のドラマには、ストーリーの流れを大きなものにするためになのでしょうが、傾向としては、あまりに“詳細”にこだわらない、という欠陥があります。
 人気が高いプロ野球選手にほれてしまった中年女が、この選手の恋人である(に違いないと女が信じた)若い女を殺す場所として大きなジムの室内プールを使うという設定はどうでしょう?スタンガンで気絶させた若い女を連れ込んだジムは旧正月の休暇で閉じられていましたが、とにかくそこに侵入します。プールには水も入っていません。中年女は、休暇中なのにおかしいではないか、とだれかに疑われことをまったく気にせずに、プールがある大きな部屋に煌々と灯りを点し、長さが25メートルは十分にあるように見えるプールに水を入れ始めます。いっぱいにするまでにどれだけ時間がかかるだろうか、その間にだれかが来たら、自分の殺人計画が頓挫してしまう、という心配はしません。さて、そこに灯りが点っていることを怪しんだ、野球選手のボディーガードだった(こちらも選手の恋人であるかもしれない)女性がプールの大部屋に入ってきます。中年女はこのボディーガードもスタンガンで失神させます。(初めは一人だけを殺すつもりだったはずなのに、なぜか、黒い頭巾のようなものを二つ持っていた)中年女は、二人の若い女たちの頭にそれをかぶせます。水がたまったら、ふたりをプールに落とし込むつもりです。中年女は、若い女たちが着ていた服を取り替えることにしました。頭巾で顔を見えなくした若い女たちは、その服でしかどちらが誰かが分からないわけですから(プールに水が溜まったころにちょうどやって来るに違いない)野球選手がどちらの服を着た女を先に救おうとするかで、本当の恋人がどちらであるか、つまり、選手の本心を見極めようというわけです。しかも、実際にどちらか一人を助けられたとしても、その服を着ていたのは実は別の若い女であるわけですから、選手は、自分の本当の恋人を助けたつもりで、実際には殺してしまうことになります。中年女を無視した野球選手の心に大きな傷が残るはずです。野球選手が(中年女にとっては最高のタイミングで)やって来ます。中年女が二人の若い女をプールにつき落とします。選手は、落とされた二人の若い女性のうち、本当に好きではない女の服を着た方を水から救い出します。ほとんど同時にそこに駆けつけてきた、選手の友人が、選手が好きな方の服を着せられていた女を救います。二人の若い女性はともに殺されずにすみました。
 本当の恋人(実はボディーガード)は自分の服を着ていなかった、つまり、もう一人の女の服を着せられていた自分を野球選手が助けたことに落胆してしまいます。選手は本当は、その“もう一人の女”が好きだったのだと思い込みます。
 種明かしはこうなっていました。野球選手は、女たちが着せられていた服からではなく、以前から見覚えがあった靴の違いを見て、“もう一人の女”の服を着た方が実は自分の本当の恋人(ボディーガード)であることが分かっていた、だからそちらを先に助けたのだ、といいます。この説明にボディーガードも納得して、話は「めでたし、めでたし」ということになりました。なかなか出来がいいトリックのようですが…。
 でも、待ってください。
 中年女は、若い女二人の服を、プール際で、自分一人で取り替えたのですよ。着替えさせたのですよ。ロングパンツとタイツのようなものも履き替えさせたのですよ。そうするためには、靴を脱がせなければならないではありませんか。そのときに、靴だけはもともと履いていた方にまた履かせる?そんなばかな、と思いませんか?手間をかけて服を取り替えさせたのだから靴だってそうするでしょう?二人の女の足のサイズが違いすぎて、履き替えさせることができなかったというのだったら、そういう説明がどこかにあるべきだったでしょう?それに、中年女が、服はそのままにして、靴だけを取り替えていたという可能性だってあったのですよ。その場合には、野球選手はすっかり欺かれて、本当に好きではない若い女の方を助けようとした=欺かれて、自分が本当に好きな方の女を見殺しにするところだった、という後がつづかない話になってしまうではありませんか。靴を見てどちがだれであるか分かった、というのは、そもそもあってはならない設定だったのです。
 脚本家も演出家も、結局は、自分たちが仕掛けたトリックに酔いしれたのか、靴はなぜ履き替えさせなかったのか、という、視聴者が抱くはずの簡単な疑問に答えることを忘れていたのです。盛り上がりかけていた、ドラマの大詰めを、“詳細”を無視する雑な制作態度で台無しにしてしまったのです。
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 韓国のドラマを見始めたのは10年ぐらい前のことだったでしょうか…。
 初めのころは、多くのドラマがエナジーにあふれているように感じられました。韓国のものには、日本のドラマにはない活力があるように思いました。
 しかしながら、おなじように制作されるドラマを10年間ほども見てきたあとのいまは…。
 韓国のドラマ制作はあまりにも安易になされている、と感じるようになっています。創意工夫が欠けていると思い始めています。
 そんなドラマを毎日見て(満足して)いる韓国人は、以前に比べると怠惰になっているのではないかと憂えています。
 ドラマだけではありません。いわゆるK−POPの分野でも、「ワンダーガールズ」や「少女時代」「カラ」を生み出したころの創造性がなくなってきているように思えます。新しくデビューする女性ヴォーカルグループの中に日本のAKB48ふうの、旧態依然とした“ぶりっこ”アイドル志向が増えてきているようです。
 ドラマづくりも物づくり。ドラマづくりがあまりにも安易に流れるところでは、高質の工業製品が産みだされこともないのではないでしょうか?
 韓国が岐路に立っているような気がしてなりません。