第238回 “つけ焼き刃”に頼る教育では…

  あなたは今夜、家族のために夕食をつくります。当然のことながら、何をつくろうかをまず考えます。冷蔵庫の中に何があるかも見てみますよね。食材や調味料などが足りないということになれば、買いだしに出かけもします。つまり、そうですね、たとえば、油を入れたフライパンを乗せてコンロに火をつけるのは、少なくとも大方の準備ができてからになりますよね。それが、まあ、普通の、常識的な手順というものですよね。
  文部科学官僚諸氏のやり方はまったく違っています。
  日本中の中学が武道を必須授業として取り入れることになりました。相撲と剣道、柔道という三つの候補の中から、それが一番やりやすそうだというので、圧倒的に多数の学校が柔道を教えることにしたようです。ほとんどの場合では、経験豊富な柔道指導者が自校に一人もいないのに!そもそも柔道を自らちゃんとやったことがある(たとえば柔道二段保持者といった)教師がまったくいない学校も少なくないと見られているいうのに!
  文部科学省というのはいったい何を考えていたのでしょう?教師たちの中に、生徒たちにある程度の技術と精神を、しかも安全に教えることができる武道の実体験者が日本全体で、何人いるのかについてさえ正確には調査をしていなかったのに(=冷蔵庫の中に何が残っているのかを見もせずに)、あるいは、指導者が不足していることは分かっていたのに何の手も打たずに(=食材や調味料などが不足していることは分かっているのに買いだしには行こうともせずに)、日本の子供たちに日本の武道を学ばせることはいいこと(家族のために夕食をつくってやるのはいいこと)だから、とにかく生徒たちには教える(=何より先に、油を入れたフライパンを乗せて、コンロに火をつける)ことにする、という無謀な決定をしてしまったのです。
  しろうと教師の指導を受けて負傷してしまう生徒が続出したら(=コンロの火をつけてしまってその火が油に移ったら)大変だ、とは官僚たちはまったく考えなかったのです。
  使う金額(=武道を必須とすること)を先に決めておいて、その資金をどこから工面するか(=それを現実にどう教えるか)はあとで政治家たち(=現場の教師たち)に考えさせる、という官僚が得意とするらしい、あのやり方です。大規模な公共事業は実施した(=武道の授業を始めてはみた)ものの、利用者が少なすぎて(=適格な指導者が少なすぎて)毎年巨額の赤字を生みつづける(=全国の学校で事故が多発する、しかも、武道教育の実がまるで上がらない)というようなことには絶対になってはならないのに!
  中学生たちの身体が危険にさらされているのです。いったん始めてしまったことだからと、危険は現場の教師たちに押しつけて平気で実施しつづける、といった無責任なことになってはならないのです。
  その危険を避けるために、ほとんどの中学校では、柔道を教えるといっても、それは“受け身”のやり方までで、生徒同士が組んで技を掛け合う“段取り”はやらせられない、というのが実情だそうです。それで、柔道を教えたということになりますか?拙速を愛してやまない官僚諸氏は、現場での混乱やためらいから目を背けて、とにかく新事業が始まった、とにんまりするのかもしれませんが、生徒たちは、現場教師のとまどいや狼狽ぶりを見せつけられて、武道の技術や精神を学ぶ前に、こんな程度の準備で大きな事業を始めてもいいのだ、というような誤った考えを身につけてしまうことでしょう。用意周到などといった言葉には関心を抱かない生徒たちが日本中に急増することでしょう。
  粗雑極まりないな考えで、あとは何とかなるといったふうに、何か大きなことを始めてもかまわないのだ、というようなことを日本中の中学生たちに学ばせることにどんな意味や意義があるのでしょう?
  中学校の教師たちの中に、必要な数の武道指導者をまず育てよう、というごく当たり前の考えが文部科学官僚諸氏になかったのです!
  “つけ焼き刃”という言葉を思い出します。「一時の間に合わせに、にわか仕込みで身につけたもの」(現代国語例解辞典 小学館
  その、気の毒な“つけ焼き刃”教師に何かを新たに教えさせようと文部科学省がしたのは武道の必須化が初めてではありません。近いところでは…。小学生にも英語(会話)を教えることにすると文部科学省が言いだしたのは何年前のことでしたっけ?
  文部科学省は、英語が使える小学校教師の育成に、事前に、どれほどの資金と時間をかけました?ほとんどゼロだったでしょう?
  日本の教育の質がこんなことで守られると文部科学官僚諸氏が本気で信じているとすれば、輝かしい未来はもう日本にはありません。“つけ焼き刃”文化を教育の世界から払拭しないと日本はいずれだめになってしまいます。
  “脱・官僚依存”に民主党が完全に失敗したいま、無責任で危険な官僚主導政治をとめられるのは国民だけです。