第233回 先入観に阻まれて

  好奇心を高めていろいろと尋ね回らない限りは、そこでしばらく暮らしてみて初めて理解できるようになる、ということが、やはりありますよね。
   1984年に、日本とのあいだを行き来しながらではありましたが、ここ、フィリピンのマニラに半年間ほど滞在したことがあります。
  使っていたホテルの近くに薬局がありました。その前をいつ通っても、店のカウンターの前には人だかりがありました。最初の印象は「みょうに病人が多い国じゃないか」という、あとで思えば、ちょっと間の抜けたものでした。やがて、テレヴィで風邪薬の宣伝を見るようになりました。「こんな南の国で風邪薬?」といぶかったのですが、「熱帯に暮らす人だから風邪は引かない、ということもないだろう」と、自分をぼんやりと納得さてやり過ごしました。
  映画やテレヴィドラマで“庶民”の暮らしを見るようになると、この国の人の多くが冷水を浴びながら体を洗うことを知りました。ふつうならば6月から11月ごろまでつづく雨季には、気温があまり上がらない日も少なくありません。「体を冷やして風邪を患うことになる人もそれはいるだろう」と、いくらか賢くなったような気がしながら、思いました。
  空調と温水シャワーつきの部屋で過ごしていたのに、そのうちに、自分が風邪を引いてしまいました。部屋を冷やしすぎたのかもしれません。
  薬局に行きました。日本やアメリカと異なって、風邪薬は棚に並べられてはいませんでした。カウンターの中の、薬剤師と思われる女性に症状を告げました。その女性に何かを尋ねられたのですが、その意味がすぐには分かりませんでした。瓶入りの、症状にふさわしい薬を黙って渡してくれるはずだという先入観があったからです。尋ね返すと、女性は「何日分要ります?」ときいているのでした。「何日分?」。風邪薬は瓶ごとではなく、客の希望に合わせて、一粒(一カプセル)単位で分け売りされているのでした。
  日々の暮らしをやっと立てている、つまりは、ぎりぎりまで節約せずには暮らせない“庶民”にとって薬が買いやすいシステムになっていたのです。一日分しか買えない者は、治らなければ、二日目にも薬局のカウンターの前に並ぶ…。人だかりの最大の原因がやっと分かった瞬間でした。
  その“庶民”の多くがビールを“オン・ザ・ロック”で飲む理由が分かるまでにも時間がかかりました。
  自宅や、自宅の近くの酒場でビールをのむときに、“庶民”はグラスの中のビールに、かちわり氷を入れていたのです。アルコールを嗜まない身には必ずしも確かなことではなかったのですが、溶けた氷でビールが水っぽくなってうまくないのではないか、みょうな飲み方をするものだ、などと思わずにはいられませんでした。
  “庶民”が通う酒場にも“庶民”の自宅にも、何本ものビールを常に冷やしておくことができるだけの大きさの冷蔵庫がふつうはないのだ、ということに気づいたのはずいぶん時間、いえ、月日が経ってからでした。
  日本やアメリカでの暮らしではありえない、考えられないことがほかの国ではあるのだ、ということを改めて知ったのでした。
  目の前に新しく現れた状況を正しく理解するのを先入観に妨げられる、というのは案外に多いことなのかもしれませんね。


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