第339回  「ああ、たいらのあつもりの“あつ”ね」

  わたしはANDY EGUCHIという名でこの「苦言熟考」を書いています。しかし、姓のEGUCHIは、容易に想像できますようにごく普通に江口なのですが、ANDYの方は、いわば通り名で、本名ではありません(ANDYと自称するようになった理由については別の機会に書くつもりでいます)。
  ……と書き出したのは、2015年02月26日の毎日新聞で、【戦後70年:今も続いている国民への忍耐押しつけ】という題がつけられた、日本文学研究者のドナルド・キーン氏へのインタヴュー記事を読んだからです。
  そのインタヴュー記事は全体が、キーン氏の人間味がよく味わえるものになっていますから、一読されることを薦めますが(http://mainichi.jp/feature/news/20150226mog00m040001000c.html)、わたしがこの記事に触れておく気になったのは、実はその中で「平敦盛」と「熊谷直実」とのあいだにあったとされるエピソードが紹介されていたからです。
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  昭和三十年代の前半(1955年からの数年間)に、わたしはおそらくは三回、互いに寸分違わぬと言っていい、次のような経験をしています。わたしがまだ小学生高学年から中学生にかけての少年だったころのことです。
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  おとながわたしに「あんた(君、おまえ)、名前はなんて言うの?」と尋ねます。
  わたしは答えます。「えぐち・あつおと言います」(そう、「あつお」が、親がわたしにつけた名なのです)
  「あつお、ね。で、あつおの“あつ”はどんな字?」
  「えーと、字の左側は、まずウカンムリを書いて、その下にクチを書いて、その下に子どものコを書いて…」
  「ああ、たいらのあつもりの“あつ”ね」
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  初めて「ああ、たいらのあつもりの“あつ”ね」と反応されたときには、わたしはまだ小学生だったのですから、そう言われても、その「あつもり」を漢字でどう書くのかも知りませんでしたし、「あつもり」がどういう人物であるかもまったく分かっていませんでした。ただ、あの源氏・平家の平家の方のだれからしい、と思っただけでした。
  とにもかくにもそれで相手に話が通じたわけですから、「あつもり」という人物のことを知ろうとは特にはしなかったわけですね。
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  しかしながら、三度目に「あつおの“あつ”はどんな字?」と尋ねられ、おなじように答え、再び「ああ、たいらのあつもりの“あつ”ね」と言われたあとには、いくらかの探究心が心の中に生まれました。
  ただ、目覚めたには目覚めたのですが、実際にどういうふうに探求したかについては、残念ながら、まったく覚えていません。学校図書館に行って自分で調べるといった具合にいくらかでも“努力した”という記憶はありませんから、安直に先生たちの中の一人に教えてもらったのではないかと思います。
  ともあれ、その結果として、“あつもり”について当時わたしが知りえたことは、毎日新聞のインタビューの中でキーン氏が語っていたものとほぼおなじでした。
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  <能「敦盛」で源氏方の武将、熊谷直実平氏の武将を一騎打ちで組み伏せるが、元服間もない自分の息子と変わらぬ若さと知り、見逃そうとしました。なんと、人間的でしょうか。味方が押し寄せてきたために熊谷は仕方がなく、敦盛を討ち取ります。その後に出家し、菩提(ぼだい)を弔うことを選ぶことになります。>
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  いま振り返れば隔世の感がありますね。昭和三十年代の初めに三十歳代か四十歳代だったおとなたちの多くは、おそらくはごく普通のこととして、平敦盛熊谷直実とのあいだのこのエピソードについて、「平家物語」あるいは能「敦盛」から学んでいたのです。
  そのおとなたちに学んで、その後のわたしは、名は漢字ではどう書くのかと尋ねられたときには、自分の方から「平敦盛の“敦”」と答えることにしていました。
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  ところが、昭和も40年代の後半になると、それが通じなくなりました。いえ、名を漢字でどう書くのかと尋ねられること自体が減ってはいたのですが、そのころには「テレヴィ時代劇“木枯し門次郎”の主演俳優、中村敦夫の“敦夫”」だというふうに答えなければならなくなっていたのです。
  暮らしの元となる情報源または媒体が変わったというだけのことだったのでしょうか?それとも、その十数年のあいだに、平均的な日本人の教養、素養などに大きな変化が生じていたのでしょうか?
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  ドナルド・キーン氏はこうも語っています。
  <熊谷のような心を持たず、ひたすらに敵を殺すことを誇ることは、本当に恐ろしいことです>
  <「源氏物語」に魅了されたのは、そこに日本の美しさがあふれていたからです。西洋の英雄物語の主人公たちと違い、光源氏は武勇をもって、女性たちに愛されたわけではありません。彼が活躍した平安朝期にはたったの一人も、死刑になっていません。憲法9条を改正すべきだとの主張があります。現行憲法は米国の押しつけであると。しかし、忘れてはいませんか。この戦後70年間、日本は一人の戦死者も出さなかったではないですか。それならば男女平等だって、土地改革だって、押しつけではないですか。改めるべきなのですか
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  “戦後”わずかに十数年にすぎなかった、そう“戦争帰り”がまだまだ青壮年だった昭和30年代の初めごろに「ああ、平敦盛の“敦”ね」と言ったあのおとなたちは、一方で何を感じながらその「敦盛」を口にしていたのでしょう?
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