第205回 「たかがタオルの受け渡し」?

  20歳の友人、G君がPHILIPPINE MERCHANT MARINE ACADEMY(フィリピン商船大学校)の二次の体力試験をしくじってからひと月あまりがすぎています。数日前にG君から来た携帯電話メイルによると、G君はすでに、自分にふさわしいと思われる職をふたたび探し始めているのですが、気の毒なことに、簡単には見つからないようです。不合格通知を受けたときの意気消沈という状態からはもう立ち直っているとしても、G君の人生がまたまた難しいものになってしまったことは疑いようがありません。
  PMMAというのは、G君の兄がいま学んでいるPHILIPPINE MILITARY ACADEMY (陸・海・空軍士官学校)ほどではないかもしれませんが、ある種のエリート校の一つだということで、競争が激しい一次の筆記試験に合格したときのG君はずいぶんに誇らしげに見えたものです。もうこれからは財政的な負担を家族にかけなくても生きていけるはずだ、という明るい見通しも、間違いなく、その誇りを支えていました。
  ええ、G君の家族は、フィリピンの大半がそうであるように、家計にゆとりを感じたことがないまま暮らしつづけていました。ですから、長男につづいて次男が、通学中には学費がかからないだけではなく、手当てさえ支給してもらえるし、無事に修了すれば、必ず良質の仕事につけてくれるアカデミーに合格したということは、家族全員にとって夢のような話でした。G君一家は社会的な階段をやっと上り始めていたのです。
  身体的な適性を数週間にわたって見る二次試験でG君がどういう理由で落とされたのかについては知りようがありませんが、わたしの目に初めから懸念の材料となっていたのは、G君の体がかなりの小柄だということでした。将来のこととして考えられる海軍艦船の予備役乗組員あるいは沿岸警備隊員、いえ、最も可能性が高い一般商船の上級船員としても、体格だけについていえば、G君は十分に恵まれているようには見えていませんでした。近所の友人らとのバスケットボールの練習で体と運動能力を鍛えているから大丈夫だと言っていたG君でしたが、アカデミーの体力テストは思った以上に厳しかったのでしょうね。
  二年制のカレッジを卒業したあとにPMMAの筆記試験に備えて勉強をやっていたときのG君は、一方で、あるハードウェアー・チェインの店の一つで(買われた商品をレジのそばでバッグに詰める)バッガーの仕事をしていました。新入社員に課せられる単純な仕事ではありましたが、それは、ゴルフ練習場で(客のためにボールをティーに乗せる)ティーボーイをやりながら、カレッジでの勉学にかかる費用を自分でなんとか稼ぎ出していたG君にとっては、人生で初めての、正式で立派な就職でした。
  その就職の前後でした。わたしはG君に「フィリピン人は物事の質の向上ということにもっと頭を向けるべきだ」という話をしばしばしていました。タイル貼りは仕上げの磨きを雑にしたまま仕事を終える、スーパーの店員は通路をふさいだ状態で商品棚の整理をする、デパートの店員はハイヒールのかかとを大きな音を立てて床に蹴りつけながら我が物顔で店内を歩く、事務職員たちはその担当窓口には目を向けずに自分たちの無駄話を楽しみつづける…。わたしが挙げた悪い例は数十にのぼっていたかもしれません。何かの縁で日本人の友人ができたのだから、G君には、普通のフィリピン人の平均的な仕事ぶりが日本人にはどう見えるかを伝えて、自分を鍛えるきっかけにしてほしいものだ、と考えていたわけです。
  こんな話をしたこともあります。
  君はテニスの試合をテレヴィで見ることは、たぶん、あまりないだろうが、あんなものからでも何かを“学ぶ”ことができるのだぞ。
  テレヴィで中継されるようなプロのテニス試合には必ず(その正式な呼び名は知らないが)ボールボーイ(ガール)がつく。この若者たちには主に二つの仕事がある。サーヴを行うプレイヤーに、最善のタイミングを計ってボールを渡すのが一つ。もう一つは、汗をかいたプレイヤーに大きなタオルを渡し、それを受け取る、というやつだ。
  何につけても、じっと目を向けているとふと何かが見えてくることがあるものだが、ここでのタオルの渡し方もその一つだ。あるボールボーイ(ガール)は丸まったタオルをそのままプレイヤーに渡す。別のボーイ(ガール)は自分の両手でタオルを広げて渡す。一方の手にラケットを持っているプレイヤーには、どちらの渡され方がいいか?広げて渡してもらえば額や腕の汗をすぐに、造作なくふき取ることができるよね。丸まったまま渡されれば?プレイヤーはそれを片手でなんとか広げて使うか、丸まったまま使うことになる。どちらのボーイ(ガール)の仕事の質が高いと思うか?
  プレイヤーから受け取ったタオルをどうするかでも違いが見える。丸まったタオルをそのまま椅子などの上に置く者もいれば、やはり両手で広げて椅子の背などに掛ける者もいる。後者が、次にプレイヤーが使うまでにタオルに少しでも日を当て風を通しておこうと考えていることは疑いない。どちらのボーイ(ガール)の方が優れた仕事をしていると思うか?
  実社会で成功する可能性が大きいのはどちらのボールボーイ(ガール)だろうか?
  イギリスで開かれている、テニスの四大大会の一つ、ウィンブルドン・チャンピオンシップが準決勝と決勝を残すだけになっています(6月30日現在)。わたしがこれまでに見てきたところでは、この大会のボールボーイ(ガール)たちの中で、タオルを広げて渡した者は、ナダル−フィッシュ戦の一人だけです。このボーイはたぶんタオルを広げて干しただろうと思われますが、そこのところは確認できませんでした。
  ほんの一個月ほど前に開かれたフレンチ・オープンでは、一人の例外もなく、タオルを広げて渡し、広げて干していたのとは大違いです。フレンチ・オープンでは大会主催者がボールボーイ(ガール)たちをちゃんと指導、教育していたのでしょうね。
  ということは…。
  この二国の若者たちのあいだに、仕事への取り組み方に関してこれほどはっきりした違いがあるのですから、両国の産業経済に関して(簡単には比較できないことは承知の上であえて)いえば、イギリスよりはフランスの方がより大きく成功している、あるいは、これからそうなるはずだ、ということになります。G君にわたしが暗示したところに従えば、そういうことになりますよね。
  さて、現実は?どうなのでしょうか?
  「いい仕事が見つかった」という知らせがG君から来るのを待つ日がつづいています。
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  IMFの資料によれば、2008年から2010年までの国内総生産額は、いずれの年もフランスが世界第5位、イギリスが第6位となっています。
  ちなみに、アメリカにつづいて世界第2位をつづけてきていた日本は2010年には中国に抜かれて第3位になっています。4位はドイツ、7位はイタリアです。
  ドイツやイタリアのボールボーイ(ガール)たちの仕事ぶりもいつか見てみたいものです。
  中国のボールボーイ(ガール)たちですか?共産主義を標榜する党が展開している“管理資本主義”の国ですからね、おなじ“ものさし”では計ることができないでしょうね。