第323回  “美談”もやはり創られるもの…?

  クロアチアマリン・チリッチに決勝戦で敗れたために、テニスUSオープンでの錦織圭選手の活躍は、惜しいことに、優勝には到らず、「日本人で初めての決勝進出」というところで終わりを迎えました。
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  錦織選手の奮闘ぶりを伝える記事の一つにこういうものがありました。【全米テニス:錦織、逆転勝ちで8強…日本人92年ぶり】 毎日新聞 2014年09月02日
  <男子シングルスは第10シードの錦織圭日清食品)が、第5シードのミロシュ・ラオニッチ(カナダ)に4−6、7−6、6−7、7−5、6−4でフルセットの上、逆転勝ちして準々決勝に進んだ。日本勢のこの大会のベスト8入りは1922年の清水善造以来92年ぶり>
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  さて、ここで語りたいのは、実は、錦織選手のことではなくて、上の記事に出ている、1922年のUSオープンで準々決勝まで進んだという清水善造選手についてなのです。
  懐かしい思いでこの名前に接したものですから…。というよりは、ただ「懐かしい」というだけではすませられない大きさ・重さでその名前がわたしの記憶の中に残っていたことに改めて気づかせられたから、というのがより正確な伝え方なのかもしれません。
  と言いますのは……。
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  いわゆる“学校教育”を受けていたあいだに教師に教えられたり聞かせられたりした話の中で、そろそろ69歳になろうかという年齢になったいまでも「これは忘れられない」と言えるものは、実はあまりありません。
  思いつくままにいくつか例を挙げますと…。
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  比較的に新しいところでは、それをも“学校教育”と呼べるかどうかを別にすれば、1979年の秋から翌年の春にかけてカリフォルニア大学リヴァサイド校の外国人向け英語コースで学んでいたときに教えられた「論文・リポート文の書き方」がそれに当たります。他人を説得する、あるいは、他人に納得してもらう文章というものはこういうふうに書くべきだということをすこぶる論理的で分かりやすく教えてもらったのです。日本語を書く際の方法論も身につけていなかった身には“目から鱗が落ちる”類の体験でした。 【第71回 「文章は<パラグラフ>を使って書くものだ!」】(http://d.hatena.ne.jp/kugen/20081108/1226109920
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  大学生時代にある教師から聞いた「相対主義と絶対主義の相克」というような話も、新鮮な驚きをもって聞きました。「わたしは相対主義者だ。そのわたしのところに絶対主義を信奉する人物がやってきて<お前の相対主義は間違っている>と迫る。絶対主義は悪だと信じているから、わたしは譲らず<わたしは、何があっても“絶対”に相対主義を守る。君こそ相対主義を選ぶべきだ>と言い募った。さて、わたしは本当に相対主義者なのだろうか」というような話でした。受験勉強を終え大学の講義を受け始めて間もない学生の耳には新鮮に響いた「相克」でした。
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  中学生のときに初めて「知能テスト」を受けたときのことです。その結果を見ながら(担任ではなかった)ある教師に職員室で唐突に「君のIQは格別なものではないな。(いまのような成績を維持したいなら)努力しつづけないといかんぞ」というようなことを言われたことがありました。わたしの頭に深く刻み込まれたエピソードの一つです。IQテストの信頼度についてはいくらか疑問を感じていたのですが、それでも、勉強という点では、自分が手抜きをしていると感じたことはその前もその後もありませんでした。
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  そんなことにもまして、わたしが「自分の人生で最も感銘を受けたのではないか」と感じているのは、奇妙に思えるのですが、昭和20年代の終わり、わたしがまだ小学生の低学年のころに聞いた二つの話です。
  そのうちの一つが、錦織選手の活躍を伝える報道の中にその名前が出てきたテニスプレイヤー清水善造が主人公となった“美談”だったのです。
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  それは「我が郷土箕郷町が生んだ世界的なテニスプレイヤー 清水善造の生涯」 (http://www.geocities.co.jp/Athlete-Sparta/4945/tennis/zenzo/zenzo.htm)によると、日本中に次のように広められた“美談”です。
  <1920年代、ウインブルドン庭球大会やデビスカップ杯争奪戦で大活躍し、世界の庭球界に大さな足跡を残した清水善造は、また数々の伝説を生む男でもあった><そのうち最も有名なのは、大正9年(1920)のウインブルドン大会挑戦者決定戦で米国のW・T・チルデンと対戦中、転倒したチルデンを見て彼が起き上がって打ち返せるような、ゆっくりとした球を送ってやったという話であろう。この話は舞台を翌年のデ杯戦に変えられたりしながら、戦前、戦後の教科書に「スポーツマンの精神」、「美しい球」、「やわらかなボール」などの題名で度々載り、美談の典型として多くの人々の記憶に刻みこまれた>
  この話を教室で聞いたとき、小学生のわたしはとても感動しました。「ああ、こういう生き方をしたいものだ」と思いました。その後の成長していく過程でも、このエピソードをたびたび思い出したものです。
  ところが、「清水善造の生涯」によると、この“美談”は事実を伝えているのではない、ということです。
  <第十四ゲームに入ると両者、長いラリーの応酬となり、観客は二人のプレーに酔いしれた。その時である。右コーナーヘ来た清水のドライブを追ったチルデンの足がもつれ、やっと打ち返したものの、その場に倒れてしまった。ふらふらっとネットを越えて来た球を清水はどう打ち返すか、一瞬迷った。左はがら空きだから、そこへ強い打球を送ればよいのだろうが、チルデンも当然その事は予想して起き上がりざま左へ走るだろう。だったら逆に相手の裏をかいてチルデンのいる右後方へ打ち返した方が効果的か。決断のつきかねぬまま打った清水のボールはチルデンのいる方、右後にゆっくりと飛んでいった。起き直ったチルデンが激しく打った球は清水のわきをすり抜けてゆき、長かったラリーはチルデンのものとなった。しかし、くよくよせず頭を素早く切り替えるのが清水の取り柄である。さあ来いと、再び身構えた清水の耳に観客の万雷のような拍手が聞こえてきた。チルデンも「清水、スタンドを見ろ」とラケットで指さしている。清水はよく分からないまま、ラケット振って観客の拍手に応えた。この情景から、例の教科書にまで載る清水美談が生まれるとは、彼自身思いもしなかっただろう>
  “美談”は創られたものだった、というのです…。
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  小学校で教えられ、わたしが「清水美談」と同程度に感動した二つ目の話は【西田修平・大江季雄「友情のメダル」 〜美談の真相】(http://www.joc.or.jp/column/olympiccolumn/goods/200802.html)では次のように伝えられています。
  <東京・新宿区の秩父宮記念スポーツ博物館には、奇妙なオリンピック・メダルがある>
  <西田さんとのやり取り> <ご存知の方は多いと思うが、1936年の第11回ベルリンオリンピック陸上競技棒高跳で激闘した西田修平選手と大江季雄選手が、「お互いの銀と銅のメダルを半分に割って、友情の証としてそれぞれをくっつけた友情のメダル」である> 
  小学生のわたしが「周囲の人たちとの関係はこういうふうに築いていきたいものだ」と感じた、つまりは、わたしの対人・対社会関係観の礎となった重要なエピソードです。
  しかしながら、“実話”はこう展開します。
  <オリンピック棒高跳決勝。この日は雨模様の天気であった。肌寒い中、照明灯に照らされたピットに残った選手は、日本選手2名、アメリカ選手3名であった> <バーは4m25。セフトン選手と西田さんは1回目にクリア。メドウス選手と大江選手は2回目でクリアした。次のバーの高さを審判員は日米4人の選手に尋ね、西田さんは4m35と答える。西田さんと大江さんにとって未知の世界だった> <メドウス選手がクリア。ほかの3名は3回とも失敗。メドウス選手の優勝が決定する> <大会ルールに従って、バーが再び4m15に下げられたとき、セフトン選手が失敗した。ここで西田さんと大江さんの2位、3位が決定する。長時間にわたる競技で、2人とも疲労は頂点に達していた。その上、寒さが骨にしみる。西田さんは、「従来のルールであると、お互い2位となるため『もう止めようや』ということになった。ところが、ボク(西田)が2位、大江が3位と発表された。その時にはびっくりした」> <「ボクは前回のロスで銀メダルを獲っているから、今回は銅でいい。次の東京オリンピックで金メダルをとって<金・銀・銅>をコレクションするのだから、と大江に銀メダルを譲った」> <「どうせ日本人の顔なんぞ誰かもわからないんだから、大江が2位として表彰台に立たせたんだ」
  <後日談。再び西田さんの話> <「メダルの話は、ずっと何の話題にもされなかった> <「東京オリンピック後に日本へ帰ってきたら、びっくりした。『友情のメダル』と、もてはやされちゃったんだ。記事にしたのが読売新聞運動部記者の川本信正さん(故人・注)だった」> <「道徳の教科書には載るは、テレビで紹介されるはで、引っ込みがつかなくなって、否定も肯定もせず、そのまんまにしていたんだが、この年になるとホントの話をしたくてネエ。これが『友情のメダル』の真相だよ」>
  この話もわたしが小学生だった昭和30年前後には教科書に採用されていたはずですから「東京オリンピック後に」というのは必ずしも事実を伝えていないようですが、とにかく、この“美談”も創られたものだったわけですね。
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  わたしのその後の生き方に大きく影響した話のうちの、それもわたしが10歳になるかならないというころに聞かせられた“美談”が実際には創られたものだったと、わたしはほぼ60年後に知ったわけですね。
  しかしながら、この二つの“美談”には嘘が含まれているからといって、わたしが受けた感銘・感動がいまになって汚されるわけではありません。わたしの人生観も変わりません。
  “美談”も“醜聞”も、だれかによって意図的に創られることがあるのだ、ということを改めて肝に銘じているだけです。時の権力が偏狭・偏屈な「愛国教育」などに異常な精力を注いでいるいまこそ、そのことを忘れないようにしなければ…。
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  小学生のころに感銘を受け、その後もわたしの頭を離れなかった話は、実はもう一つあります。ただ、これについては「ある作家か随筆家が汽車で旅行しているときに、自分の座席の脇に蟻がいるのを見て<この蟻は(自分の巣を離れて汽車なんぞに乗り込んでしまっているのに)自分がどこをどう、どこまで移動しているのかを知らない>というふうに感慨に浸った」という話としてしか記憶に残っていません。しかし、この話からわたしは、初めて、宇宙観とはどういうものかについて学んだのでした(…蟻を見たというのは中西悟堂国木田独歩だったのではないかとなんとなく感じているのですが、まだ調べ出すことができていません)
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