第149回 「もう、これで行くしかない!」

  John T. Lescroatという作家の"A CERTAIN JUSTICE"(ISLAND BOOKS)をいま読んでいます。ハードカヴァーが1995年に出版された<サンフランシスコで起こった(架空の)暴動を背景にした政治・司法小説>です。
  暴動が起こった経緯は…

  ある黒人青年(J)がカージャック目的で乗用車を襲い、白人の会計士(M)を射殺し、いったんは逮捕されますが、<裁判を維持するには証拠が不十分だ>として釈放されます。
  SF市内の、被害者(M)がそこの常連客だったあるバーで、この白人被害者(M)を悼む集まりが開かれます。
  その最中に、バーの前に駐車してあったBMWの窓をこじ開けようとしている黒人男性(A)を参加者が見つけます。
  白人を射殺した黒人青年(J)が安易に放免されたことを憤っていた集会参加者たちは、こんないい車を黒人が持っているはずはないという先入観から、この黒人男性(A。キーを車中に残したままドアをロックしていた、このBMWの持ち主。弁護士)を(白人の自動車から何かを奪おうとしている犯罪者と決め込んで)取り囲みます。
  この男性(A)の弁明が気に入らない、アルコールに酔った白人たちのあいだから<こいつをつるそうじゃないか>という声が上がり、実際にロープを探し出してきて、みなで黒人弁護士(A)をつるし始めます。
  たまたまこのバーにいた、正義感が強い白人青年(K)が、怒り声を上げる人びとの群れに分け入って弁護士に近づき、その体を持ち上げながら、ロープを自分で切るようにと、ポケットに持ってたナイフを弁護士(A)に渡します。
  そういう場面を写真に撮ったカメラマンがいました。撮影した数枚の中で最も鮮明な写真をTV局に持ち込みます。
  SF市内で起こったリンチ事件!この写真を基にマスコミはこの事件を大々的に報じます。白人青年(K)が黒人弁護士(A)の体を下に引いて首の締りを確かなものにしようとしているとも見えるこの写真を見て、警察と検察は白人青年(K)をリンチ事件の張本人として指名手配します。
  白人たちによって黒人弁護士がリンチ殺人されてしまったことを怒ったSFの黒人たちが暴動・略奪・放火を始めます。その後、数日間つづくことになるSF大暴動が勃発したのです。

  暴動が大きくなると、SF警察は多額の懸賞金を出すことにし、白人の凶暴リンチ犯(K)を警察は本気で捕らえようとしているのだという姿勢を、特に黒人社会向けに鮮明にします。暴動を鎮めるにはそうする以外にはないと考えたからです。
  カリフォルニア選出の連邦上院議員(L)、その娘の検事(E)、地方検事局長、SF警察署長、SF参事官などがそれぞれ自分の政治的な利益のために動きだします。

  ところが…
  カメラマンはほかにも数枚の(写りが悪い)写真を撮影していました。その中には、弁護士が吊るされている(白人青年が真下に引きおろしている)はずのロープが斜めに写っているものがありました。弁護士の服のよじれも下に引かれているようには見えません。<吊るされた人物の体を持ち上げようとしていたのだ>という白人青年の主張を裏づける写真です。
  SF警察殺人課の課長(G)は当初から、マスコミに持ち込まれた写真から受ける印象以外にはこれといった証拠がないままにこの白人青年(K)を犯人と決めつけて大々的に指名手配することに抵抗感を抱いていました。そこで、黒人弁護士(A)は押し上げられているのだとしか見えない新たな写真があること、さらには、追悼パーティー参加者以外の第三者が<K青年はA弁護士を押し上げていた>と証言していることなどの新たな情報を上司に伝えて、警察・検察の見込み・思い込み捜査に疑念を示します。
  G課長のこの意見に対して、地方検事局長は<司法はすでに青年Kがクロだと決めてここまで来ている。このままKに罪を着せて暴動を沈め、早く裁判に持っていき、Kを有罪とするのがだれのためにも最善なのだ。もう、これで行くしかない!>というような理屈でG課長を黙らせます。この方針に従わないようだと、課長の職も危なくなる、という脅しも加えました。

  さて…
  この話はフィクションです。しかしながら、新たなに出てきた証拠を握りつぶして、自分たちの従来の主張を維持しようとする検事局長(とそれを支持する上院議員など)−という設定がアメリカの読者たちにことさら不自然だと思われていないことは、この小説がペイパーバックになって長く読まれていることでも分かります。
  選挙で選ばれる検事局長や連邦上院議員、SF参事官などが有権者の目を意識して、つまりは、自己保身のために、事実には目をつぶって“人気取り”の決断をする、というストーリーはアメリカの読者には受け入れられているわけですね。

  ところで…
  <東京新聞>にこんな記事がありました2010/02/21)。見出しは<厚労省元局長公判、検察苦戦=「虚構」「冤罪」証言相次ぐ−郵便不正・大阪地裁>
  <障害者割引郵便制度の悪用事件に絡み、偽の団体証明書を作成させたとして、虚偽有印公文書作成・同行使罪に問われた厚生労働省元局長村木厚子被告(54)=休職中=の大阪地裁での公判で、検察側が苦境に立たされている。捜査段階で同被告の関与を認めた元上司ら5人が証人として出廷し、次々と供述を翻しているためだ>

  検察の摘発開始時から村木被告は<全面無罪>を主張しつづけています。これを打ち崩すための検察の手は、被告の部下だった元係長の上村勉被告や自称障害者団体元代表倉沢邦夫被告などに村木被告の直接のかかわりを証言させることだったのですが、その証人たちが<次々と供述を翻している>というのです。
  検察に思い込みはなかったか?わずかな証拠を基に<被疑者や被告は叩けば吐く>といった安易な態度で見込み捜査に突き進んだのではないか?
  突き進んだ挙句に、容疑を否定する証拠や証言が出ても、自分たちの保身や面子を第一に考え、それらの証拠を無視して裁判に走ったのではないか?「もう、これで行くしかない!」とばかりに。

  検察は無謬か?
  フィクションの世界でも、現実の世界でも、検察は無謬だなんてことはありえない−というのが常識的なところのようです。
  検事も人間です。検察も、他の組織とおなじように、人間が運営する組織です。
  人間は間違いを犯しますし、自分の欲に負けて行動することもあります。検察官もおなじです。
  犯した間違いにどう対処するかで、その人間・組織の質が見えます。
  間違いを認めずに、隠ぺい工作を行って、国民を裏切るつづけるような人間・組織は(特に公職には)不要です。

  自分たちの無謬性を検察が妄信しているのに、多くの国民がそのことに疑問を抱かないために、司法の不正義がまかり通る−そんな社会に日本をしてはなりません。
  そんな不正義を助長する(自らが検察の“下っ引き”でもあるかの)ような報道をマスコミはけっしてしてはなりません。