第137回 官僚の(価値観に基づいた)、官僚による、官僚のための政治

  日本のマスコミが近頃、全体としてますますおかしくなっています。
  その最大の原因は<自民・公明から民主への政権交代とはどういうことなのかがマスコミには分かってない>ということにあるようです。

  念を押しておく必要があります。
  第一に、この政権交代は事実上、戦後、といよりは、日本の政治史上初めてのものです。政権を奪った側にも、奪われた側にも、とにかく過去には経験がないことなのです。交代後の数か月、あるいはそれより長いあいだ、政治の動きが滑らかにいかないのは当然考えられることでしょう。
  自民党でさえ−。来年度予算が膨大になること=赤字国債の発行額が拡大すること=を批判したあとで、鳩山首相に<あなた方には言われたくない。ここまで膨らませてきたのはあなた方ではないか>という具合に簡単にやり返されてすっかり面目を失ってしまいました。つまりは、もともと自省という習慣がほとんどなかった自民党ですが、この党にもやはり、野党慣れするまでの時間がまだ、かなり要るだろうということです。

  では、マスコミはというと−。
  自民党よりも悪いかもしれません。<政権交代後の動きが滑らかにいくはずがない>という、普通の国民には分かりきったことがまったく理解できていないのですから。
  いやいや、もっといけないのは、新政権のいくらかぎくしゃくした動きをマスコミが(あたかも自分たちにはすべてが分かっているというような態度で)“重箱の隅をつつく”ように=何がいま重要なのかの検討を十分にはしないで=批判していることでしょう。

  8月の衆院選挙の前は“民主党の応援団長”のような顔をしていた<ゲンダイネット>までがこう言っています。
  <民主党に政権担当は無理なのか、毎日の新聞を見ていると、民主党政権を批判する記事があふれ、「混迷」といった文字が躍る。鳩山政権に期待していたのに、大丈夫か……と不安になってくる国民も多いはず。米軍の普天間基地の移設問題も迷走しているし、予算編成もモメている。さらにイヤなのは民主党の看板のはずの「脱官僚」も後退している>(11月9日)

  次の<読売新聞>の記事を見てみてください。

  元大蔵次官の斎藤次郎氏の日本郵政社長就任に続き、政府が同日、人事院総裁含みで人事官に江利川毅・前厚生労働次官を充てる同意人事案を国会に提起したことに野党側が一斉に反発。鳩山首相は官僚が省庁のあっせんで再就職することが「天下り」であると定義し、一連の人事は問題ないと主張するなど「脱・官僚依存」から現実路線に軌道修正を図っている。(2009年11月5日)

  <「脱・官僚依存」から現実路線に軌道修正を図っている>ですって?
  元官僚を起用すると、それがすなわち“官僚依存”?“天下り”?
  もう一度言います。<読売新聞>だけではありません。マスコミ全体がこの調子なのです。
  だったら、元官僚=官僚出身=の民主党議員が政策決定に加わると、それは何?“官僚政治”そのもの?
  ばかなことを言ってはいけません。
  
  東京放送(TBS)を退社したあと政治評論をつづけている 田中良紹(たなか・よしつぐ)という人物はこう考えています。
  <「天下り」が問題なのは、第一に官僚の人事権を政治家ではなく官僚が握ってきた事、第二に国民から預った税金をその人事に関して無駄遣いしてきた所にある>

  つまり、人事権を政治(政府)が握っている限り、その人事は“天下り”とは言えない=“官僚依存”への逆戻りではない=という考えです。

  上の<読売新聞>のような意見が“恥ずかしげ”もなく展開されるのは、マスコミがそもそも<“官僚政治”とは何か>についてまともに考えたことがないからに違いありません。
  怠慢なことに、マスコミはそれを定義づけたことがないのです。
  ですから、鳩山首相の<官僚が省庁のあっせんで再就職することが「天下り」>だという定義に対してまともな反論ができず、自民党と声をそろえて<軌道修正>だと噛みつくことぐらいしかできないのです。

  では−
  可能な限り単純化するために、だれでも知っている、リンカーン大統領のあの表現をまねて定義づけると“官僚政治”とはこういうことになるのではないでしょうか。
  <官僚の(価値観に基づいた)、官僚による、官僚のための政治

  官僚の世界に目を向けた=官僚の利便を最優先にして行う=“政治”です。
  日本の政治は、実際に、明治政府の創設以来、ほぼそのように行われてきたはずです。
  そして、その官僚たちに頼り切って政府が政策を決め、実行するのが“官僚依存”です。
  ですから、たとえ<官僚による>政治でも、それがたとえば<国民の価値観に沿った、国民のための>ものなら、それは“官僚政治”ではありません。

  田中氏がいう<官僚の人事権を政治家ではなく官僚が握ってきた事>というのは<官僚による>、また、<国民から預った税金をその人事に関して無駄遣いしてきた所>というのは<官僚のための>に当たるでしょう。

  <元大蔵次官の斎藤次郎氏の日本郵政社長就任>は“天下り”か?
  ここではやはり鳩山首相の言い分が正しいのです。<官僚が省庁のあっせんで再就職することが「天下り」>なのです。

  政府の構成員は、これまでのどの内閣でも、ほとんど、あるいは全員が国会議員です。国会議員は選挙で国民に選ばれています。国民への責任を負っています。それに対して官僚は、だれからも選ばれていないし、失政があってもだれにも責任を取ることがありません。その大きな違いをマスコミは無視しつづけています。
  官僚(主導)政治が悪いのは主に(政治家主導と違って)、国民全体の利益に反する=主として官僚を利する=政策を取り決め、行っても、国民に対して、官僚は責任を取らないですむからです。国民によるチェックを直接に受けることがないからです。

  間違った人選ということはあり得ますが、(元)官僚が何かの役職に起用されても、国民の代表である=選挙で国民にチェックされる=政府が決めたのであれば、それは構造としては“官僚依存”ではありません。人材を官界出身者に求めたというだけのことです。
  鳩山首相の反論を“路線の軌道修正”だと主張したいのなら、マスコミはまず“官僚政治”とは何かについての考えを明確にしなければなりません。他人の言葉尻を捉えて批判めいた=気が効いたふうの=ことを言っているだけではだめなのです。

  この政権交代を受けてマスコミは民主党政権以上にもたついています。自民党以上に迷走しています。“混迷”しているのはマスコミの方です。マスコミはいま、腰を落ち着けて検証し分析することを忘れて、怪しげな意見や見解を国民に向かって投げかけつづけています。
  そうそう−
  検察の捜査が身近に及んでる鳩山首相に向かって<説明責任>を果たすように執拗に求めて、マスコミが国民を“首相はクロ”の方向へ誘導しているのもその一例です。警察・検察の捜査の対象になっている人物は(たとえ首相でも)自己に不利になる=自分を罪に落としいれる=恐れがあることを自ら進んで述べる必要はありません。それが民主的な、現代の司法の基本というものでしょう?
  −−名誉毀損で訴えられる=法廷での係争に持ち込まれる=ことが少なくない新潮社や文芸春秋社は、ほとんどの場合は<事実関係は法廷で明らかにする=明らかになるだろう>などと述べて、事がどう展開するかを見ます。それでいいわけです。出版社が“説明責任”を追及されることはありません。政治家にも同じ(説明を避けるという)“権利”があります−−

  マスコミが望むような“説明”をしない首相をどう受け止めるか=次の選挙でだれに、どの党に投票するか=は国民が決めることです。その国民がどう判断するかにもよりますが、鳩山首相はいずれ、自らが犯した失敗の責任を(検察の捜査の行方とは別に)取らせられることになるでしょう。そんな中でマスコミが警察・検察の代理人になろうというのは大きな“考え違い”です。
  警察・検察が歴史上で何度も犯してきた過ち“自白強要”をマスコミが首相(や小沢民主党幹事長)に向かって繰り返すのを見るのは実におぞましいことです。

  思慮が浅いマスコミは国民にとっては“百害あって一利なし”の存在だと言えます。