第142回 「鳩山首相の記者会見」

  自分の不正政治資金問題について鳩山首相がきのう、12月24日、記者会見を行って“説明”しました。
  この会見後のマスコミの反応は<母親の献金を知らなかったと言い張るにはその額が大きすぎる><秘書の不正(悪事)はその秘書を雇う政治家の不正(悪事)だと首相は過去に言ったはずだ。言ったとおりに辞任すべきだろう>などいうようなもので、首相にははなはだ分が悪いものになっています。会見の際に首相に精彩のある(首相を追い込むような)質問をした記者は皆無だったというのに…。

  よく分からないのは、たとえば、母親が首相に与えたカネの額を大きいと思うかどうか。その判断は相対的なもので、“庶民”には大きく見えても、大金持ちにはそうは見えないこともあるのでは?<巨額だったから知っていたはずだ>という主張は通らないはずです。
  マスコミは根拠を欠いた主張で国民に誤った認識を与えようとしています。そういう方向へ世論を誘導しています。
  秘書の不正は政治家の不正。首相は、その不正が政治家の私腹を肥やすためになされた場合を想定して述べたもので、自分はそれに当たらない、と答えました。今朝の報道では、この部分の首相説明にはほとんど触れられていないようです。
  検察が政治資金規正法違反での立件を多用するようになったのは、そもそも、贈賄・収賄事件として摘発するのが難しい場合が多かったからでは?
  鳩山首相の“不正政治資金”問題では、贈収賄については、検察は手を出すこともできていません。その疑いはなかったのでしょうね。
  首相が述べるように、<収賄絡み>と<贈与税未納>とでは“不正”の質が違います。検察自身が異なって扱っています。
  過去に言ってもいないことを根拠に首相に<辞任しろ>というのは、自民党の言い分としてならともかく、マスコミとしては正しい要求ではないでしょう。
  それに「知らなかった」ではすまないと首相に自白を強要するも間違っています。それではすまないと本当に信じるのなら、それで“逃げられた”検察をマスコミは責めるべきです。非難の矛を向ける先を間違ってはいけません。

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  世界各国で人気が高い作家 John Grisham (ジョン・グリシャム)の小説 "The Appeal" (Dell FICTION)の465ペイジにこんな記述があります。

  But in Washington, money arrives through a myriad of strange and nebulous conduits. Often those taking it have only a vague idea of where it's coming from; often they have no clue.

  試約:<しかし、ワシントンではカネは、奇妙であいまいな無数の導管を通してやって来る。そのカネを受け取っている者たちが、それがどこからやって来ているのかについてぼんやりとしか知らないこともしばしばだ。まるで知らないこともよくあることだ>

  有力上院議員とカネの関わり方はそんなものだと作家が言っているところです。

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  政治家のカネの流れを透明にする努力をやめてはならないのですが、日本であれアメリカであれ、政治家の周辺にいる者たちは、どうやら、できるだけ<その政治家自身が汚れない>やり方でカネを動かそうとしているようです。
  
  さて…。マスコミの報道の仕方と内容には賛同しませんが、わたし自身は、鳩山首相は辞任してもいい、と思っています。世論、特に無党派世論の民主党離れを食い止め、政権運営をいまよりは滑らかにするのに、首相の辞任はおおいに役立ちそうだからです。政治的(で打算的)な理由からです。
  世論の支持なしでは、いつか、政権の維持はできなくなります。

  谷垣、大島、石破…。旧態依然とした自民党に政権を戻す愚を犯すわけには、まだ、いきません。民主党も、国民も。

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  ついでに触れておきますと…。
  それが首相であれだれであれ、検察に提出する説明書を“上申書”と呼んで何の違和感も感じないマスコミの精神構造をどう思いますか?
  最高裁に<上告する>、高等裁判所に<上訴する>など、“上(うえ)”に向かってする行為に“上”をつけますね。では、なぜ検察が首相より、一般人(首相の母親)より“上”にあるのでしょう?その根拠はどこに?
  “お上崇拝時代”の名残りでしかない“上申書”という用語をいまも平気で使うマスコミは本当にどうかしています。
  この説明記者会見で“上申書”という言葉を使わなかった鳩山首相の方がマスコミの何倍も筋を通しています。