第113回 「〜せる」「〜せられる」はなぜマスコミ報道から消えたのだろう?

  近年マスコミ報道が(ほとんど)使わなくなった表現・言い方の一つに「〜せる」「〜せられる」があります。
  気づかれていましたか?

  思いつくままに、例をいくつか挙げてみましょう。

  ①任せる・任せられる
  ②行かせる・行かせられる
  ③泣かせる・泣かせられる
  ④食べさせる・食べさせられる
  ⑤歩かせる・歩かせられる

  「使わなくなった」なんてことはないだろう。みんな毎日読んだり聞いたりしている表現・言い方だよ−と思いますか?
  たしかに、何の変哲もない、ごく身近な言葉ですよね、ここに挙げた例は?
  
  ところが…。
  現実には、こういう表現・言い方をマスコミ報道は近年ほとんどしていないのです。
  では、どう言い換えているのか?

  ①は「任す」「任される」
  ②は「行かす」「行かされる」
  ③は「泣かす」「泣かされる」
  ④は「食べさす」「食べさされる」
  ⑤は「歩かす」「歩かされる」

  −に(ほとんど)移行してしまっているのです。

  ③で比べてみましょう。
  「泣かせる」と「泣かす」。「泣かせられる」と「泣かされる」

  それぞれにどこが違っているのでしょう?
  なぜ「泣かせる」や「泣かせられる」ではなく「泣かす」や「泣かされる」でなければならないのでしょうか?

  いえ、音数を合わせなければならない歌謡曲の歌詞が、たとえば、「なぜに俺を泣かす〜」となっているのは、まあ、理解できますよ。
  でも、報道で「泣かす」タイプの表現に限られてしまったのはなぜでしょう?

  「現代国語例解辞典」第二版を見てみましょう。

  「泣かす」は<泣かす[動五]>と活用が示されているだけで、あとは「⇒なかせる(泣)」を見よとなっています。現代の日本語では「泣かせる」が普通の言い方だということが暗示されているようです。

  もっとも、国語辞典というのは、概して、言葉の意味や使い方には大きな幅を持たせて説明するもののようで、ここでも、その「泣かせる」の項には「泣かす」とも書かれていて、同義であるとの説明になっています。

  ですが…。
  「泣かす」と「泣かせる」はまったくの同義なのでしょうか?
  「泣かされる」と「泣かせられる」は?
  日本人は「泣かされる」を「泣かせられる」を以前から、まったくおなじ意味で使ってきていたのでしょうか?

  手軽に使うことができる辞典はふつう、言葉が歴史的に持っている“語感”には触れません。“語感”には個人差がありますから、触れないのは、まあ、当然なことなのかもしれませんが−。
  ですが、それぞれの言葉が持つこの“語感”の違いにこそ、もともと、日本語の奥深さが秘められていたのではないでしょうか?
  −こういうことです。

  対比が明らかになりやすそうですから受身形・受動態を見てみましょう。
  「泣かされる」には、その行為の主の、たとえば、“横暴さ”が微妙に示されているように思いませんか?
  一方の「泣かせられる」には、その行為を受けた者の、曰く言いがたい“思い”が秘められているように感じませんか?
  
  「任される」と「任せられる」では?
  「任される」からは、その行為の主の顔が、「任せられる」からは、その行為を受けた者の顔が、それぞれより強く見えてきませんか?

  ですから、わたしが抱く“語感”に従うと−。

  「村の百姓たちは悪代官の強欲さにいつも泣かされていました」
  「あの老人が若い頃に味わったという苦労の話には、本当に、泣かせられました」
  というのが本来あるべき言い方だということになります。

  「村の百姓たちは悪代官の強欲さにいつも泣かせられていました」
  「あの老人が若い頃に味わったという苦労の話には、本当に、泣かされました」
  というのは、それぞれ、みょうに落ち着きの悪い表現なのです。

  というわけで、わたしは、マスコミ報道が何が何でも「任す」「泣かす」ですまそうとするのが嫌いです。
  そう統一しなければならない理由がまったく見えないし、理解できないからです。
  そう統一されることで、日本語が本来持っているはずの“語感”がまったく無視されてしまうからです。読者や視聴者から、その“語感”の違いを味わう機会を奪い去ってしまうからです。

  日本の主流マスコミが使っている日本語は間違いなく“劣化”していっています。そう思います。
  日本人全体がどういう日本語を使うかということに、学校教育上に、大きな影響力を持っているマスコミはいま、みなで頭を突き合わせて“美しい日本語”をどう広めていくかについて考えるべきです。
  いえ、“醜い日本語”をどう避けるかについて−でもいいでしょう。

  とにかく、日本語を理不尽に醜くするのはやめてもらいたいものです。