~あるカラオケシンガーのメモワール~  <8>

第8話 ~フィリピン~ 一九八四年八月 <8>

  (このストーリーはフィクションです。作中の人物、企業などはすべて創作されたものです)



       〈八〉



  皿に盛られたパンシット・マラボンをわたしはなんとか半分だけ食べ終えていた。

  ありがたかったことに、食事中、メルバは何もたずねかけてこなかった。

  そのあいだに、わたしの気持ちはずいぶん落ち着いたものになっていた。〈メルバは高野さんが好きなのに違いない。それでわたしにやきもちを焼いているんだ〉と思えるようになっていたからだった。…そう考えれば、彼女があんな形でわたしに好奇心を抱く理由が分かるはずだった。

  彼女の次の質問には、もっと大人らしい、分別のある答えを返す心の準備ができた、とさえわたしは感じていた。

          ※

  やっとベッドの片隅に横たわったのは午前四時をだいぶ過ぎてからだった。ベッドのもう一方の片隅にはメルバが体を横たえていた。ほかのほとんどの女たちがそうしているように、わたしたちも一つの―本来は一人寝用の―ベッドを分け合っていたのだった。

  横たわってから最初にメルバが口にしたのは、わたしが想像していたとおり、高野さんのことだった。彼女は、近くで寝ている女たちに自分の話が盗み聞きされるのを危惧でもするかのように、わたしの耳に口を近づけてささやいた。「ミスター高野はとってもとってもいい人ですよ」

  わたしも小さな声で言った。「そうね。そんなふうに見えたように思うわ」。そんな、みょうに遠回しな言い方しかできなかった。

  「あの人のことをどう思いますか」

  「どう思うかって…」。わたしは再び返事に困っていた。「たまたま〔昨夜〕、ニ、三時間わたしのお客さんだっただけの人だから…」

  「何を話したんですか」

  「フィリピンの経済や犯罪。それに映画のことや…。ほかには何があったかな」

  メルバはちょっと黙り込んだあと、心を決めた、というような口調で言った。「ミスター高野は、わたしが先月ここで働きだしたときからずっと、わたしの、とってもいいお客さんだったんですよ」

  「そうだったの?」としかわたしは言えなかった。高野さんと変に親しくならないように、とメルバがわたしに告げるつもりであることは火を見るよりも明らかに思えていた。…彼女の声があんなふうに穏やかなものでなかったら、わたしは脅えさえしていたかもしれない。

          ※

  自動車のヘッドライトの明かりがときおりさっと横切る天井の暗い一角に視線を向け、わたしはメルバの次の言葉を待っていた。

  「だから、こう言えるんですけど…」。メルバは言った。「ミスター高野はきっと、トゥリーナさん、あなたを好きになります。…もうなっているかもしれません」。彼女の声にためらいはなかった。

  わたしの頭に、高野さんが店で見せたあの苦笑が一瞬よみがえった。

  ひと呼吸したあと、メルバはつづけた。「あの人は本当にいい人です。トゥリーナさんはもうすぐ、とても幸せな女になります。…間違いありません」

          ※

  深い眠るに落ちる前にメルバがわたしに〈おやすみなさい〉と言ったことは覚えている。でも、自分がそれに応えたかどうかは…。

          *