~あるカラオケシンガーのメモワール~ <9>

第9話 ~フィリピン~ 一九八四年八月 <9>

  (このストーリーはフィクションです。作中の人物、企業などはすべて作者が創作したものです)

       〈九〉



  メルバのTシャツの背に黒と赤の二色で書かれた〔I ♥ NINОY!〕の文字を見つめながら、わたしは歩いていた。アキノ元上院議員が暗殺されたのは前の年の八月だったのだから、そのシャツが売り出されてからまだ一年ほどしか過ぎていなかったはずなのに、あの悲劇に関する人々の記憶はこんなふうにうすくなってしまったのだとでも言っているかのように、文字の色はひどくあせていた。

  [さくら]の寮を出て、二人で町中を歩き始めてからずっと、わたしとメルバはほとんど声を交わしていなかった。

  メルバが振り返ってわたしに顔を向けたのは、わたしたちがマビニやアドリアティコといった通りを歩き回ったあと、[ピスタン・ピリピーノ]の、マビニ通りに面した出入り口にさしかかったときだった。…メトロ・マニラで最も知られた観光名所の一つであるこの場所に入ってみよう、と彼女の目が誘っていた。

  「なぜだか、はっきりとは分からないんですけど」。メルバはほほ笑んだ。「わたし、ここがとても好きなんですよ。…ここに来ると、冒険を求めてマニラに着いたばかりの外国人にでも自分がなったような気がするからかな。フィリピン全土から集められた手芸品や絵。それに人形やランプ。…いろんな民芸品に取り囲まれるでしょ?わたし、とても楽しくなるんです。全部、自分の国のものなのに、めずらしくて。…あれこれと想像させられて」

  「ほんとね」。わたしは同意した。「自分たちの国のこと、本当は、自分たちが知っていると思っているほどには分かっていないのよね」

  そう言ってしまってから、それがみょうに気取った言い方だったことに気がついた。前の夜の当惑がわたしの頭の中にまだ残っていて、彼女に対して素直な表現ができなかったのかもしれなかった。

          ※

  そこまでの散歩を、メルバは必ずしも楽しんでいなかった。

  いや、たとえば、アドリアティコのショッピングセンターの中の文具屋で[サンリオ]のキティー・グッズを見つけたときには、彼女も、十代の女の子ならだれでも浮かべるはずの大きな笑みを見せはした。でも、その笑みは心底から出たものには見えなかった。彼女はずっと、頭の片隅で何かほかのことを考えているのだった。

  その〔何か〕を言い当てるのは難しくないはずだった。メルバがわたしを、散歩に行こう、と誘ったのは、また高野さんのことを話したいからに違いなかった。…わたしはそう思い込んでいた。

          ※

  「わたしが言おうとしていること、当てることができます?」。メルバの声は弾んでいた。

  わたしたちはすでに[ピスタン・ピリピーノ]の中にいた。メルバの指が、観光客にフィリピンの民族ダンスと音楽ショーを見せるレストランの木造の建物をさしていた。

  音楽は聞こえていなかったし、ダンスが演じられている気配もなかった。周囲に観光客の姿もなかった。

  「ショー・レストランと関係あることね?」

  少しいたずらっぽくほほ笑みながら、メルバは大きくうなずいた。

  さあて、何かしらね」。ほほ笑み返しながら言った。「…降参よ。分からないわ」

  「わたしは実は、バタンガス州の故郷の町で…」。メルバは気をもたせるようにそこで言葉を切った。

  「〔故郷の町で〕?」

  「バンブーダンスの名人の一人だったんですよ。…と言ったら、信じてくれます?」

  「まあ、そうだったの?」。わたしの胸の中から彼女に対する警戒心のようなものが抜けていくのを感じながら言った。「もちろん、信じるわ。でも…」

  「でも?」

  「だったら、メルバ、あなたはどうして[さくら]のようなカラオケの店で働いているのかしら。歌手ではなくて、ダンサーとして日本に働きに行くチャンスがあったでしょうに。あなたにとっては、その方が簡単で、近道だったんじゃない?」

  前夜の、メルバの、りっぱとはいえない歌の記憶がわたしの頭に蘇っていた。…彼女は、わたしでさえすぐに気がついたほどの、つやのある、すばらしい声に恵まれてはいたけれども、ほとんどの曲をまだ、客か仲間のだれかに助けてもらわなければテンポに合わせて歌いつづけることができなかったし、本物の―ちゃんとお金が稼げる―カラオケシンガーになるまでにはずいぶん長い時間がかかりそうに見えていたのだった。

          ※

  「わたしはそう思わないんですよ」。メルバは、まるで人生の経験をたっぷりと積んだ女でもあるかのように、ゆったりと首を横に振った。

  わたしは「そう?」と言っただけで、メルバの説明を待った。

  「いえ、民族舞踊のダンサーになろうかって、考えたこともあったんですよ。でも、問題が三つありましたから、その考えは早々に捨てたんです。一つ目は、フィリピン国内には民族舞踊を見ようという人があまりいないようだから、プロのダンサーとして仕事を探すのは大変だろう、と思えたこと。だって、どんなに長くこの国にとどまっている外国人でも、滞在中に三度も四度もバンブーダンスを見たいとは思わないでしょうし、お金を出してでも、どうしてもバンブーダンスが見たいというフィリピン人もほとんどいないわけでしょう?…国内では、働ける場所、あんまりないって思ったんです。

  「カラオケシンガーとしてであれバンブーダンサーとしてであれ、いつか日本で働くことを第一に考えれば…。ふつうは、日本で働ける期間より、次にまた日本で働ける機会をフィリピンで待っているあいだの方が長いんですよね?日本で、最大限の六か月間働いたあとは、次の十か月間、あるいはもっと長い期間を、フィリピンで過ごさなければならない、といったふうに?日本で合法的に働くためのヴィザは、希望者が多すぎて、簡単には手にできないんですよね?で、そのあいだ、マニラで、フィリピン国内で、ダンサーとしての仕事が見つからなかったら、どうなるんでしょう。バタンガスで家族は?」

  「わたしも同様よ」。わたしは応えた。「カラオケシンガーでいる限りは、メトロ・マニラのどこかで、何とか仕事が見つかるかもしれないものね。…ちょうど、わたしたちがいまそうしているように。どれほどかのお金を家族のために稼がせてもらいながら」

  「ええ、わたし、そう考えたんです。そして、二つ目は、もっと重要なことですけど、問題のその日本でも、フィリピン人ダンサーの仕事口は、シンガーに比べるとうんと少ないんでしょう?」

  わたしはうなずいた。…ダンサーになるつもりだったにしろシンガーになるつもりだったにしろ、現実にその世界に入りもしないうちに、メルバはどうしてそんな情報を手に入れていたのだろう、と訝りながら。

  メルバはつづけた。「日本で働いて、家族のためにお金を、それもできるだけ早く、効率よく稼ぐ、というのがわたしの最終的な目標です。…ダンサーでは、そうはいかないようでした」

          ※

  「それで、もう一つの問題というのは?」。わたしはたずねた。

  「三つ目は…」。メルバの顔に大きな笑みが浮かんだ。「おもしろい話」

  「つづけて、メルバ、聞きたいわ」

  「ほら、バンブーダンサーとしては、わたし、ちょっと背が高すぎるって、そう思いませんか」

  「そうね、あなたは背が高い女の子だけど…」

  「いっしょに踊っていた、すごく親しかった子に一度何と呼ばれたか、話してあげますね。その子、わたしのことを〔貧乏人の筆箱の中の、金持ちの鉛筆〕だって言ったんですよ。なぜだか分かります?」

  「さあ…」

  「〈ほかがみんな〔短い〕のに、メルバ、あなただけが〔長い〕〉。その子、そう言ったんです」

  笑いださずにはいられなかった。メルバもわたしにつられて笑いだした。…あの午後、わたしとメルバがおなじ気持ちになったのはあの瞬間が最初だったはずだ。

  「プロのバンブーダンスのティームとしては」。メルバはまだ笑っていた。「全体のバランスが取れていて、動きが調和している方がいいでしょう?背が高すぎるせいで、だれかが一人でお客さんの注目を集めすぎて、焦点がぼけてしまうというの、やっぱり、まずいでしょ?」

  「そうかもしれないわね」

          ※

  メルバに導かれて、わたしはショー・レストランの入り口の、木製の階段をゆっくりと上っていた。

  「ですから」とメルバは言った。「わたし、その子に、ありきたりの言い方でしたけど、こう言い返してやったんです。〈あなたは〔熱くなったフライパンの中のゴマつ粒〕だ〉って。だって、その子は、とても背が低くて、竹ざおを飛び越えながら踊るときの動きが、ものすごく敏捷なんです。…それはもう、とても高くてすばやいジャンプ」

  「目に見えるようだわ」

  「技術的なことをいえば、わたしたちふたりのダンスには問題はなかったと思いますけど、やっぱり、〔長すぎたり短すぎたり〕するの、美しくないですよね」

  「メルバ、おもしろいわ、その話。…とっても」

  「ええ、本当に」。メルバはくすりと笑った。

  彼女を芯から十代の女の子らしく見せたその笑い方が、わたしにはとても好ましいものに思えた。

          *