~あるカラオケシンガーのメモワール~ <7>

第7話 ~フィリピン~ 一九八四年八月 <7>

 (このストーリーはフィクションです。作中の人物、企業などはすべて創作されたものです)



      〈七〉  



  寮は、もともと二つの部屋だったものを一つに改造したらしい大きなベッドルームと小さな台所があるだけの簡単な造りだった。

  女たちは、ベッドルームでラジオ音楽を聴きながら大声でしゃべり合っているグループと、空腹を満たすために何かを料理しているグループの、二つに分かれていた。ちょっと見には、十人以上はいるように見えた。

  何人かがわたしにちらりと視線を向けてきたけれども、言葉はかけてこなかった。…いずれも、わたしを労わるような、それでいて、どこか遠慮がちな視線だった。女たちはみな、働きだした〔最初の夜〕の疲れがどんなものであるかを熟知しているのだった。

  食欲なんかなかったのに、わたしはちょっと台所を覗いてみた。…娘たちのために健康でいるためには、十分な睡眠のほかに適度な食事も必要なことが、わたしにも分かってはいたのだ。

          ※

  「いっしょに食べますか、トゥリーナさん?」。ベッドルームの隅の床にバッグを置こうとしていたわたしの肩越しにだれかが親しげにたずねかけてきた。

  予期していなかった声に少し狼狽させられながら、わたしは振り返った。

  人好きのする、愛くるしい目を大きく見開きながら、メルバがわたしにほほ笑みかけていた。

  「今夜はパンシット・マラボン。一皿三ペソでどうです?」。彼女は言った。わたしが台所をのぞくところを見ていたに違いなかった。

  「メルバ。…名前、間違っていないわね?」。 店で言葉を交わさなかった彼女がごく親しげに話しかけてきたことにいくらか驚きながら、わたしは言った。

  「ええ」。彼女の方は、わたしが彼女の名を知っていたことを意外だとは思っていないようだった。

  「よかった。…ということは、メルバ、そのおいしいヌードルを、わたしも一皿食べさせてもらえるのね?」

  「もちろん」。メルバは大きくうなずいた。

   わたしはその三ペソを取り出そうと、バッグの中にしまったばかりの財布に手を差し伸ばしかけた。

  メルバは両手を宙に差し出し、わたしの動きをとめながら言った。「でも、払うのは待った方がいいかももしれませんね。食べたあとで〔しまった〕と思うといけませんから。だって、今夜の当番グループは、わたしを含めて、料理が下手なんで有名なんです」。メルバはそこで急に笑い出した。「…というのは嘘。本当を言うと、最初の夜の人にはただで食べてもらうことに決まっているんですよ」

  「まあ」。メルバにほほ笑み返した。「ありがたいな、それ」

  「もうすぐできあがりますからね」。もう一度にっこりと笑顔をつくって見せると、食事の希望者リストにわたしの名をつけ加えるためだったのだろう、メルバは台所に戻っていった。

          ※

  数分後、メルバとわたしは木製のベッドの一つに並んで腰を下ろしていた。

  壁際のうす暗い隅で、一つのベッドを分け合いながら二人の女がひっそりと眠り込んでいるのに、わたしは初めて気づいた。…店で客に何かを食べさせてもらっていた女たちに違いなかった。

  「メルバ、ありがとう。…わたしを覚えてくれていて」。わたしは小声で言った。「正直に言うと、店でみんなに簡単に紹介してはもらったけど、仕事中はだれとも親しくは話さなかったから、今夜はこの寮で、最初の夜をひとりでぽつんと過ごすことになるんじゃないかって心配していたのよ」

  「わたしが覚えていなかったとしても、そんなことにはなっていなかったはずですよ。寮のみんなは…」。メルバは声を小さくし、くすりと笑ってからつづけた。「ほとんどは、かな。とにかく、お互いに優しくし合うようにしていますから。それに、わたしが覚えていたのは…」

  メルバの表情が真剣なものに変わっていた。「トゥリーナさんは今夜…。もう〔昨夜〕って言うべきかな。とにかく、ミスター高野のテーブルについていたし、どうしても目につきましたから」

  会話がどんな方向に向かいかけているのかが分からないまま、わたしは言った。「高野さんは最初のお客さんだったのよ。結局は〔最後の〕にもなってしまったけど。…わたし、お客さんは一人だけだったの、〔昨夜〕は」  「[さくら]で最初の夜…」。メルバの目がわたしの顔を食い入るように見つめていた。

  「そう。でも」。わたしは当惑していた。「本当は、ここで働くのは三回目なの。最初は、ずいぶん前のことだけど」。メルバの視線を避けながら、わたしは〈たぶん〉と思った。〈あなたがまだ、この国のどこかの小学校か中学校に通うかわいらしい女生徒だったころのこと〉

  わたしは自分の胃の辺りに手を当てながら、急いでつけ加えた。「ああ、わたし、死ぬほどお腹がぺこぺこ」。メルバとどんなふうに話せばいいかを考えつくまでの時間を稼ぐための嘘だった。

          ※

  大仰に空腹を訴えるわたしの言葉にメルバは反応しなかった。代わりに、彼女はすごくまじめな口調でこう言った。「わたし、トゥリーナさんをずっと見ていたんですよ」

  「そう?」 わたしの当惑はいっそう大きくなっていた。。「気がつかなかったわ。でも、なぜ?」

  「なぜって…。とてもきれいでしたから」。メルバはそう言いきると、大きな笑みをつくって見せた。

  「まあ、からかわないで、メルバ」。ほかの言葉は思いつかなかった。

  「からかってなんかいません」

  わたしは笑顔をつくって応えた。「じゃあ、もう一度〔ありがとう〕を言わなくっちゃね。今度は、精一杯にほめてもらったお礼に」

  メルバの直視にわたしは脅えかかっていた。この少女が次に言い出す言葉の予測がつかないことがみょうに怖かった。

  「まじめに言ってるんですよ」。メルバは言い張った。

  「分かったわ。あなたのほめ言葉は、そのまま受け取らせてもらうことにするわね」

          ※

  メルバは引き下がらなかった。「何歳か、きいていいですか」。わたしへの強い好奇心で彼女の目は輝いていた。

  「ええ、いいわよ。…わたしは二十四歳」。メルバがなぜ、そんな個人的なことに関心を抱くのかが理解できないまま、落ち着かない気分で、わたしは答えた。

  「ミスター高野は何歳か知っていますか」

  まったく予想外の問いだった。「何歳かって…。わたし、そんなことたずねなかったから…」

  「三十六歳なんですよ」。メルバはそう言うと、突然ベッドからすべりおり、途方に暮れるわたしを残して、台所に行ってしまった。

          *

    <八>につづく