第376回 <愛国心>を国民に無理強いするのはこんな連中

  安倍首相とその取り巻きたち、自民党などの右傾化、戦前・戦中・大日本帝国への回帰指向・願望・画策がその勢いをますます大きくしています。
  その回帰を図るための有力な手段の一つと彼らがしてきたのが国民への<愛国心>の強制です。
  ここではっきりしているのは、しかし、<愛国心>をどこまでも強引に国民に強制しなければならないのは、戦後70年以上にもなるのに、誰もが自ら自然に愛せる国に日本を創り上げることが彼らにはできなかったからだ、ということです。
  彼らが創ってきた日本は、日本人の誰もが自然に愛することができる国にはなっていないからです。日本人の大半が、立憲・平和・民主主義の美しさを高らかにうたい上げる現日本国憲法に敬意を払い、おぞましい<大日本帝国の再来>なんか望んでいないからです。
  そこで彼らが考えたのが<大日本帝国隠し>です。
  愚かで無能な軍人・政治家たちが、国民の命の貴さを恐ろしいまでに軽んじ、まるで勝算がなかった大東和・太平洋戦争に無謀に突入していき、数百万人もの国民を無残な死に追いやったという事実に国民の目を向けさせたくない彼らが目をつけたのが、国民の情緒や感傷に訴える<愛国心高揚運動>です。
  国民の道徳感・倫理感、加えて美的感覚までを彼らの都合に合うように誘導し、「とにかく日本は<いい国>なのだ」と(醜悪な行きつき先を隠して)国民を洗脳してしまおうという運動です。
  その<愛国心高揚運動>を現場で熱烈に支えているのがどういう人物たちであるかは、たとえば、あの森友学園事件の表と裏で怪しく動きつづけた(安倍首相夫妻、首相に阿諛追従する“忖度官僚・政治家”たち、国や自治体の公的なカネを詐取することも厭わなかった学園経営者などといった)者たちを思い起こせば分かりますよね。
  臆し怯えるることなく平気で不正を働き、国民の福利をないがしろにする(愛国利権に群がる)彼らが言う<愛国心>がどれほど腐りきった偽物であるかは、改めて指摘する必要もないでしょう。
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  [2017年9月13日に追加]
  【社説 森友学園問題 国会は矛盾をただせ】(http://www.asahi.com/articles/DA3S13129816.html?ref=editorial_backnumber) 朝日新聞 (2017年9月13日)
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  そこで【第35回 恐怖の<愛国教育>】(2006年11月23日)をまた読んでください。
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  NHKの番組「クローズ・アップ現代」をマニラのケイブテレヴィでも見ることができます。

  この番組で先日、恐ろしいものを見てしまいました。初めのうちは、気を集中させて見ていなかったもので、正確な再現がここでできないのが残念ですが、わたしが<恐ろしい>と感じたのは、日本のある小学校である女性教師が実験的に行っていた“愛国心”を高揚させるための授業が紹介されたときでした。

  この教師は、桜や紅葉で前景が飾られた富士山の美しいパネルを数枚用意して<四季のある日本はすばらしい>ということを生徒たちに教え込もうとしていました。

  そのための<道具>としてこの教師は<南の暖かい国からやって来ている>スージーという女性を考案していました。そして、このスージーに「ああ、日本はいいな、四季があって。わたしの国には四季がないから単調でつまらない」というような意見を述べさせます。

  まるで、南国に住む人たちがすべてそう思っているかのような扱いです。

  こういう画一化を一方では<偏見>と呼ぶのではありませんか。教育の場で育てられ、煽られた<偏見>がファシズムの大きな武器として使われたのはそんなに遠い昔のことではありません。

  この教師自身は<南の国>に長年住んだことがあるのでしょうかね?あったうえで自分が<日本は四季があるからいい>と思ったというのなら、それはこの教師の意見として何の問題もありませんよね。ですが、この教師はスージーとかいう、自分が考案した女性に日本を美化するだけではなく、自分の国を卑下するようなことを言わせているのです。僭越というより、まったくの傲慢です。

  もっと恐ろしい場面がありました(ここをちゃんと見ておかなかったことが悔やまれます)。

  ある女生徒が<四季があるとなぜいいのですか?なくても美しいものは美しいのではありませんか?>というような意味の質問をしたのです。

  わたしはこの生徒の感性のすばらしさにすっかり感心してしまいました。

  同じNHK国際放送で別の日に、ペルーの山岳地域にすむ人たちの暮らしを紹介した番組がありました。海抜3,500〜4、500メートルという場所で数種のジャガイモも作り、数十頭の家畜を飼いながら生きる家族に焦点が当てられていました。

  男の子二人、女の子一人という子供たちのうちの長男は、将来は(同じ山岳地帯内の小さな、市場や学校があって、ある程度賑やかな)町に住みたいと考えていますが、次男(14歳)と娘(9歳)はずっといまの場所で暮らそうと考えているようでした。そこでの暮らしが好きだからです。

  <こんな風呂もシャワーもないところで?学校に行くのに二時間以上も山道を駆け下りなくてはならないのに?食べるものといったらジャガイモしかないのに?>とあなたは問いかけますか、この子たちに?

  美しいものは美しいのです。好きなものは好きなのです。その感じ方を誰かに強制することはできないのです。強制してはいけないのです。

  “愛国教育”の実験授業中の女教師は、彼女の主張に疑問を感じた女生徒に「だって、スージーの国では一年中、同じ花を見てなきゃならないのよ」と、脅迫的だとも思える“指導”を行い、NHKのナレイションによると、この女生徒も最後には<日本の方がいい>という意見に同調したということでした。

  恐ろしい、と思いませんか?

  何を美しいと感じるべきかを強制的教えるのが<愛国教育>なのです、この教師には。

  放っておくと、やがて日本中の学校がこういう教師であふれるようになってしまうかもしれません。…戦前のように。

  <教育改革><愛国心の高揚>などを謳い上げている安倍首相の狙いはそこにはない、と言い切れますか?

  煎じ詰めれば、事が何であれ、お上が<こう感じなさい>といったらそう感じろ、ということなのですよ、この手の<愛国教育>というのは。

  たとえ、一年中同じ花を見るしかない国があったとしても、その国の人たちがそれを退屈だと感じているかどうかは、知りようがありません。外国人が決めつけることではありません。それは、まして、外国の教師がそうだと信じて、教育の場で、生徒たちに偏見として教え込むべきことではありません。

  他の国の人たちが彼ら自身の国を愛しているという事実を教えない<愛国教育>は実に危険です。それはむしろ<亡国教育>です。