第294回  失礼ながら、先に日本語力を…

  「苦言熟考」はこれまでに何度も「日本語が劣化している」「劣化した日本語では論理的で筋が通った思考ができなくなる」「それでは日本がおかしな方向に進んでしまう」というように主張してきました。
  その劣化を先頭で担っているのが大新聞とNHKとを含む報道機関である、とも言ってきました。
  さて、その劣化“犯人”の中に一部のブロガーたちも加えた方がいいのではないか、と思わせられる典型的な例に出合いましたので、今回はそれを紹介します。
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  ブログを公表している人たちは、当然のこととして、そのブログの読者たちから、否定的なものを含めて、何らの反応があることを頭に入れているはずです。ですから、ここでこれから“批判”するブログの書き手の名は明かしてもかまわないのでしょうが、慮るところがあって、それはしないことにしました。あるブログ・サイトに2013年11月7日に掲載されたものだとだけ記しておきます。
  “批判”とはいうものの、その“内容”に反論しようという意図があるのではありませんから……。
  そうは言ったものの……。
  このブログには、その“内容”よりは深刻で、大きな問題があります。不特定多数の訪問者に読んでもらうブログの書き手として、その日本語能力は十分なのだろうか、ということです。自分の思うところが、このような日本語能力で、ちゃんと伝えられているのだろうか、とこのブロガーは考えるべきではないか、といことでもあります。
  まずは、ブログの全文、【節1】から【節8】(それぞれ<>内)に目を通してください。()内はわたしが補填、修正した語です。話(し)の「し」は不要なものです。“品がない”あるいは“子供じみた”用語は斜字体にしておきました。
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  【節1】 <食材偽装の問題や融資問題でのそれぞれの金融機関の言い分、天皇陛下に手紙を渡した人や息子が逮捕されたことで引責した人の言い分(は)それぞれにあります>
  「食材偽装の問題や融資問題でのそれぞれの金融機関の言い分」というのは〔食材偽装の問題や融資問題でその倫理観に疑問が抱かれているレストランや金融機関の言い分〕ということだろうと思われます。〔食材偽装の問題〕に関して〔それぞれの金融機関〕に〔言い分〕があろうとは考えられませんからね。
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  【節2】 <法律に違反しているなど明確な判断が可能な部分ありますが、悪意は無いとか、自分はそうは思わないというような話(し)になってくると個人の信念、想いの部分になってくるので唯一絶対の正解はない世界の話(し)なので致し方ない部分ありかと思います
  「法律に違反しているなど明確な判断が可能な部分」というのは〔法律に違反していると明確に判断できるところ〕という意味でしょうね。それでも、だれがどんな法律に違反しているとこのブロガーが言っているのかは不明のままですよね。ブロガーの主観的な思いが先走っていることが顕著な悪文です。
  「なってくるので……話(し)なので」も日本語の通常のつながり方になっていません。おそらくは〔個人の信念、想いの部分になってくるので、それは唯一絶対の正解はない世界の話(し)だ、ということになるのは致し方ない〕というふうに言いたかったのでしょうね。
  だれが〔悪意は無いとか、自分はそうは思わないというような話(し)〕をしているのかも明らかではありません。読者に「想像してくれ」とねだるのは、物書きとしては無責任だとしかいえません。
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  【節3】 <成功するためには自分の信念を貫くことが大事というような話がされることが多いですが、冒頭で紹介したような例で、責任を取りたくないだけなのか、本当にそう思っているのか外から(は)判断しにくい事(が)ありますが、外圧が大きくなる前にみずから責任を取る人が少なくなった気がします>
  突然に〔成功するためには自分の信念を貫くことが大事というような話がされることが多い〕と言い出されても、それが【節1】【節2】とどう関連するのかがまったく分かりません。〔自分の信念〕が何のことであるかも説明されていません。
  〔本当にそう思っているのか〕の〔そう〕が何を指しているのかも示されていません。
  この節全体としては、「なんらかの“不祥事”を引き起こした人びとが〔外圧が大きくなる前にみずから責任を取ることが少なくなった〕」と言いたいのでしょうね。
  〔話がされることが多いですが〕〔判断しにくい事(で)ありますが〕と、前を否定する「……が」を二度つづけて使ったせいで、論旨を貫くことができなっていますよね。
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  【節4】 <自分の経験では橋本内閣のちょっと前あたりから、要職ある人達(要職についている人達)がそれまでの通例なら責任(を)とって辞職したようなケースでも居直りを始め、そこからズルズル、、というような印象(が)あるのですが、これは具体的にソース(を)示せないのであくまで印象のレベルの話(し)ですが、、、>
  〔あくまで印象のレベルの話(し)〕をわざわざ書く必要があったとも思えません。書くことで論理をますます不明確にしているだけなのですから。
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  【節5】 <武士の時代のように責任(を)取るのが(責任を取るとすれば、それは)切腹というのは現代ではありえないでしょうけど、明日死ぬかもしれないと思って生きるとか、頑張るというような意識の持ち方ってある意味(では)明日切腹を申しつけられるかもしれないって覚悟で生きているのと繋がる部分がゼロじゃないような気がこの文章書きながら思いついたりしています>
  「明日死ぬかもしれないと思って生きるとか、頑張るというような意識の持ち方ってある意味(では)明日切腹を申しつけられるかもしれないって覚悟で生きているのと繋がる」というのもひどい悪文ですよね。いったい何が言いたいのでしょう?
  〔切腹というのは現代ではありえないでしょう〕と初めに言っておきながら、その流れの中で〔明日切腹を申しつけられるかもしれないって覚悟で生きているのと繋がる〕というのは、形としては「……けど」で結んではあるものの、論理的にはやはり矛盾しています。
  〔いまは武士の時代とは違いますから、切腹して責任を取れとは言われませんが、明日切腹を申しつけられるかもしれないって覚悟で日々を過ごすという生き方もあっていいのかもしれませんね〕というふうに言いたかったのでしょうね。
  〔この文章書きながら思いついたりしています〕というのも、読者に対して礼を欠く態度ですよね。消化不良の思考を読ませられる読者がかわいそうでもあります。頭の中で「こうだ」と考えがまとまってから書きつける、というのが良心的な物書きのやり方でしょう?
  〔気が〕…〔思いついたり〕というのも通常の書き方にはなっていません。
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  【節6】 <冒頭に紹介したニュースについて、安岡正篤という人の「論語に学ぶ」という著書の中にイデオロギーについて触れているところで、こんなくだりがあるのですが
  ==かれも一理、これも一理」とか、「泥棒にも三分の理」とかいうような諺もある。要するに理論は平行線であって、どこまでいってもそれだけではかたづかない。純粋な科学技術の研究理論でさえなかなか一致がむずかしいのですから、況んや人間、あるいは人間生活に関する思想・評価という様なものになると、正にもかれにも一理、これも一理で、なかなか決着するものではない==
  <自分の理解できることだけで世の中回っている訳ではないのは理解できますが公的資金や税金面でも助けてもらっている立場を忘れてないか?とか、それまでさんざん一流ブランドは信頼の証し的な露出しておきながら実は裏腹な企業体質、、、成人した人間のやったことに親がどこまで責任持つかというのは確かにそうですが、他の人ならこうはバッシングされないという発言はあまりに尊大な気がします>
  〔冒頭に紹介したニュース〕というのは何のことなのでしょう?〔……言い分それぞれにあります〕という一文は〔ニュース〕ではありません。的をはずしています。
  その“外れ”を問わずに、善意に解釈すれば、ここのところは、たとえば、〔冒頭に紹介したニュースに関係づけていえば、安岡正篤という人が「論語に学ぶ」という著書の中の、イデオロギーについて触れているところで、こんなふうに述べています〕とでもブロガーは言いたいだと思われます。
  〔冒頭に紹介したニュースについて〕のままでは、まるで、安岡正篤という人がその〔ニュースについて〕じかに何かを発言しでもしたかのように読まれてしまいます。
  〔公的資金や税金面でも助けてもらっている立場を忘れてないか〕という個所も意味不明です。だれが〔忘れて〕いるのかを書かないのはただの不精というものです。責任感がある物書きはこういう不精を嫌わなければなりません。
  〔親がどこまで責任持つかというのは確かにそうですが〕の〔そう〕も分かりません。〔親がどこまで責任持つかという問題は(それはそれとして)確かに、別にあるのですが〕ということだと思われます。
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  【節7】 <手紙の人についてはここで具体的に触れるのは無しにしておきますが、なぜかイギリス映画『クィーン』でトニー・ブレアシェリー夫人がエリザベス2世との謁見の際に礼儀をわきまえないぞんざいな態度とったシーンを思い出しました>
  ここで何の説明もなしに、いきなり〔手紙の人〕と書き出すのも、いい物書きのすることではありません。前に〔天皇陛下に手紙を渡した人〕が出てきたのは、それこそ、冒頭なのですよ。間が空きすぎています。
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  【節8】 <それなりの社会的な地位にある人達がそこ(で)得られる便益は受けて当然、でもそこで起きたことの責任は取らないという話(し)になってくると、末端のほうはどんどん白けてきそうになるのですが、そこで無関心になってしまうのが一番良くないのかもしれませんね>
  この節も理解しにくいものになっていますよね。〔それなりの社会的な地位にある人達〕とは誰のことであるのかがすぐには分かりませんからね。面倒くさがって、その〔人達〕が指しているものを特定しないですませるような人は、公開された場で他人に読ませる文章を書くのはひかえるべきです。
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  もう気づかれていますように、このブログの悪しき“特徴”は「……が」と「……けど」などが見境なく使われていることです。そのせいで、文の一つひとつ、つまりは、それぞれの“節”の意味が、実に理解しにくいものになってしまっています。
  「……ですが」「……けれども」を多用する著名人としては、たとえば、(かつてのフジテレビの安藤優子キャスターをはじめとして)プロ野球解説者の梨田昌孝氏やNHK相撲放送の藤井康生アナウンサーがいます。彼らの場合も、何かを言い切らないことで、責任逃れをしているように聞こえることがあります。言葉の“専門家”なのですから、彼らはこの“悪癖”を捨てるべきです。
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  さてさて、ブログを【節1】から【節8】まで全部読んだのに、このブロガーが何を言いたいのかがあまり理解できなかった、ということになっていても、それはあなたに何らかの問題があるわけではありません。このブログは、読み手にかなり“深読み”してもらわないと何が書いてあるかが伝わらない類の、かなり低質なものなのです。
  このブロガーには失礼な言い方になりますが、これは見習ってはならない“悪文章”の典型例の一つです。
  名のあるブログ・サイトにこの程度の文章が転載されていること自体が“日本語の劣化”の証拠の一つだと思います。
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  ところで、日本の政治を導いている国会議員たちの日本語力はどんなものなのでしょうか?大新聞やNHKよりはましでしょうか?
  いやいや、日本がいま進もうとしている道を眺めてみる限りでは、彼らの日本語力は、ここに引用させてもらったブロガーのものと似たり寄ったりだと思われます。その道には“論理性”もちゃんとした“筋”も見当たりませんからね。
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  自民党公明党に任せたままでは、日本は中国あるいは北朝鮮のように、自由がない、息苦しい国になってしまいますよ。
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  【第281回 決まりが必要以上に“複雑・あいまい”だと】(http://d.hatena.ne.jp/kugen/20130630/1372545941
  <それが何に関することであれ、“決まり”を必要以上に、複雑に、あるいは逆に、あいまいにしておくと、やがて、その複雑さやあいまいさを悪用しようという者が出てきます><いやいや、悪用しようというので初めから“決まり”を故意に複雑、あるいは、あいまいにしておこうと考える者さえ、現実の世の中には少なくないようです>
  <決まりの“複雑さ”や“あいまいさ”を利用して騙しにかかってくる手合いに気づくだけの理性や知性、判断力は常に持ちつづけていたいものです
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  時事往来【--1989年8月9日-- 「ですが」症候群 -140】(http://d.hatena.ne.jp/ourai09/20090706/1246834596
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  【特定秘密保護法案―成立ありきの粗雑審議】朝日新聞 社説 2013年11月16日 (http://www.asahi.com/paper/editorial.html?ref=com_gnavi
  <特定秘密保護法案の審議が衆院の特別委員会で続いている。自民、公明の与党は、来週中に衆院を通過させる構えだ><審議を聞くにつけ、この問題だらけの法案を、こんな粗雑な審議ですませるつもりなのかという疑念が募るばかりだ>
  <外部からの検証メカニズムがないまま、実質的に官僚の裁量で幅広い情報を秘密に指定できるという法案の骨格を動かすつもりはなさそうだ>
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