第212回 正しく使われなくなった「確信犯」

  多くの人びとに正しく使われていない日本語の一つに「確信犯」があると長く感じつづけていました。「この使い方はこの言葉がもともと定義された意味とは違っている」と思ったことが過去に何度もありました。ずいぶん前から誤用はまれではなくなっていました。
  しかしながら、2011年8月29日の東京新聞の【私説・論説室から】に長谷川幸洋という、論説員だと思われる人物が<「想定外」はウソだった!>というコラムで「確信犯」を下のように使っているのを見たときには、いささか驚かずにはいられませんでした。なにしろ<論説室から>ですからね。社内の若い、経験が浅い記者が辞書や辞典で調べる手間をかけなかったために起きた間違い、というわけではありませんでしたからね。この新聞社内で最も日本語能力が高いはずの人物たち−−書き手とチェック役−−が犯したものでしたからね。
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  <東京電力が先週の会見で「福島第一原発は高さ十メートル超の津波に襲われる可能性がある」と(苦言註:2008年に)試算していたことを明らかにした><東電と政府はこれまで「地震津波は想定外」と言い続けてきたが、実は想定内だったわけだ><国民を欺き続けた揚げ句、世間の関心が民主党代表選に集まっている時期を狙って白状した。当事者として試算があるのは最初から分かっていたのだから、完全な確信犯である>
  ここで長谷川氏は、東京電力は自らに非があることを十分に知っていながら、あえて非はなかったことにして、意図的に社会を欺いた、と主張しています。つまり、東電は、悪いことだと十分に分かっていながらあえてその行為・行動に及んだ、と責めているわけです。
  「はてなキーワード」が<悪いこと、あるいは法律に触れることだとわかっていながら、意図的にあえてその行為をやってみせること。トラブルを引き起こすことを知りつつ、罪悪感をもたない人>と解説しているところがそれに当たります。
  ところがこの解説には<現代の用法(誤用「確信犯」と呼ばれることもある)>という註が付されています。つまり、言葉の本来の使い方ではないのです。
  では正しい意味は?
  「はてなキーワード」は<自らの信念に基づいて、それが社会の規範、道徳に反していると判っていても、正しいと思う行為を行うこと。思想犯・政治犯・国事犯など>としています。
  「goo辞書」には<道徳的、宗教的または政治的信念に基づき、本人が悪いことでないと確信してなされる犯罪。思想犯・政治犯・国事犯など>との説明があります。
  要するに、自分は悪いことを行ってはいない−−正しいことをしている−−と“確信”して行われる犯罪、あるいはその犯人を「確信犯」というのが正しいわけです。
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  いまでは日本人の半分ぐらいが誤用しているのだから、と東京新聞は強弁してはいけません。社会の変化などにつれて言葉は変わります。しかし、新聞がそんな変化を受け入れるのは最後の最後であるべきです。言葉の変化に関していえば、新聞、いえ、報道機関はあくまでも本来の意味に拘泥するべきです。保守的であるべきです。報道機関は日本語=日本文化の最後の守り手でいいのです。軽佻な変化のお先棒担ぎをしてはいけないのです。
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  単独で物を書くことが普通だと思われるブロガーと違って、東京新聞には、書かれた文章をチェック、訂正、校正する係りの人物もいるはずです。しかも、上の文章は、新聞社の看板部署<論説室>で書かれたものですからね。世間で広く誤用されている「確信犯」のような言葉には格別の注意が払われるべきだったと思います。いえ、東京新聞に限らず、論説室が外に発する文章は新聞社の“顔”なのですから、最良の知性、論理性、整合性、正確さなどが集約されたものでなければなりません。そこでは、主張する内容にまで首を傾げさせるような、安易な用語の間違いが許されてはなりません。
  自分が間違った“情報”を伝達していては、たとえば、政府の情報伝達方法が悪すぎるなどと、他者を責めたり批判したりすることができないではありませんか。
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  ついでに触れておきますね。
  「姑息な」という言葉を「卑怯な」「卑劣な」「ずるい」という意味で使っていませんか?
  新聞紙上やブログペイジでの使われ方を見ると、大半の物書きがそういう意味をこの言葉「姑息」に負わせているように思われます。
  小学館の「現代国語例解辞典」を見てみましょう。【姑息】一時の間に合わせに物事をするさま。一時逃れ。「姑」はしばらく、一時の意。
  新潮国語辞典(現代語・古語)ではこうです。【姑息】(「しばらく休む」の意から)一時の間に合わせ。一時のがれ。
  つまり、たとえば「姑息なやり方」は、もともとは、けっして「ずるいやり方」や「卑劣なやり方」を意味してはいないのですね。
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  言葉を厳密に使わない頭から厳密な思考が生まれるわけはありません。厳密に思考しないと、正しい判断ができません。
  東日本大震災東京電力福島第一原子力発電所の事故のあとに、県知事から町村長にいたるまでの各自治体の長が発言するところを何度もテレヴィで見聞きしました。もちろん、例外はありましたが、全体としては、これらの長の日本語が国会議員たちのものよりはずいぶん的確で整っているという印象を抱きました。何につけてもあいまいな判断でよしとすることに慣れきっている、自らの業務に怠慢な国会議員たちが日常的に使う日本語が、毎日、毎時、的確な判断をしなければならない状況に置かれている自治体の長たちのものより劣っているのは、まあ、自然なことだろう、と思ったものです。