8月14日の読売新聞の社説〔〔戦後66年 政治の「脱貧困」をめざせ〕〕で述べられていることについて書きます。
いま必要だと思われるところだけをここに引き写しますと…
<読売新聞の「昭和時代」の連載で、山内昌之・東大教授は「軍人たちは非常に曖昧な責任回避の楽園にいた」と指摘している><例えば、日米戦争の転換点となった42年6月のミッドウェー海戦は、日本海軍の司令長官や参謀長が大局を見誤ったために空母4隻を失って大敗した。しかし、敗因は分析されず、司令長官らの責任も問われなかった><この「責任回避の楽園」の愚を繰り返してはなるまい>
この結論に異論はありません。しかしながら、上の、山内東大教授の指摘を受けてこの社説が〔例えば〕として挙げている〔空母4隻を失った大敗〕の例は果たしてこの結論を十分に支えているのでしょうか?
〔「責任回避の楽園」の愚〕の例として〔42年6月のミッドウェー海戦は、日本海軍の司令長官や参謀長が大局を見誤ったために空母4隻を失って大敗した。しかし、敗因は分析されず、司令長官らの責任も問われなかった〕ことだけを挙げているのは正しいのでしょうか?それでいいのでしょうか?
日本海軍が〔大局を見誤ったために〕起こした最大の間違いは、そもそも、勝ち目はないと海軍自身が思っていた(と歴史的にすでに証明されている)対米戦争に、仮に負けた場合にはこう責任をとるという覚悟がないまま、無謀にも突っ走ったことだったのではありませんか?そのことに比べれば、ミッドウェー海戦での敗北−−空母4隻の喪失−−などは“ささいなこと”にすぎないのでは?遅かれ早かれ、どこかで、こんなふうに大敗することは、アメリカの産業力の強大さを熟知していたはずの海軍には早くから予測できていたのでは?
日本海軍の「責任回避」を〔空母4隻を失った大敗〕のことに矮小化して論じるのは、意図してそうしているのでなければ、大きな間違いだというべきだ思います。
それ以上に問われるべき点は、たとえば、補給線が十分には確保されないことを承知したうえで日本海軍が戦線を果てしなく拡大しことでは?そのせいで、おそらく数十万人の日本兵、軍属、さらには、海軍に乗せられて“南洋・南方”に進出した民間人を死なせてしまったことでは?
そういう戦略的な大失敗こそが〔日本海軍の日本海軍の司令長官や参謀長が大局を見誤ったために〕起こったことだとして第一に責められるべきなのではありませんか?「非常に曖昧な責任回避の楽園にいた」軍人たちが最も責められるべきところは、そもそも、どういう戦況になったら勝ちなのか、負けなのか、それすらも分かっていないまま、つまりは、進みどころについても退きどころについても確たる戦略がない状態で、闇雲に戦争に突入したところにあるのでは?
そんな日本海軍が〔空母4隻を失った大敗〕ぐらいで敗因を分析したり、司令長官らの責任を問うたりすると思いますか?
読売新聞の上の社説には論の進め方に重大な欠陥があると思います。最も重要なことに触れていません。
いえいえ、どちらかといえば些細な問題を過大に取り上げて、さも重大な何かを論じた気になって自己満足に陥る、というのは何も読売新聞だけの問題ではありません。日本の報道機関は、根本が何であるかを検討せずに表層的なところで論を展開することに慣れすぎています。ですから、たとえば、いわゆる“ねじれ国会”が引き起こす政治的騒動を現象として追認報道することはできても、そんなばかげた騒動が国益をひどく損なっているとは考えないし、その国益を実現するためには“強すぎる参議院”を改変するべきだと自信を持って主張することもできません。“ねじれ国会”は現実に存在するのだから、与野党がよく話し合え、などといった、いわば表層に関する提案でいつまでもお茶を濁しています。そんなことでいったい何が解決するというのです?抜本的な参議院の改変なしには、どの政党が政権を取ろうと、おなじような騒動が常に、永遠に起こる恐れがあるのですよ。
まだ不完全な形だとはいえ、二大政党間の政権交代が可能な時代にやっと入ったばかりなのに、選挙制度のうえでは日本のだれを代表しているのかさえ明確ではない参議院が政権交代の意義を根底から無にすること−−国会審議をとめて法律を作らせないこと−−政権政党の政策を実施させないこと−−衆議院選挙で国民が示した意思を覆すこと−−ができる、ということに疑問を抱かない報道機関!
表層的な論議しかできないのは政治家たちも同様です。
「野田新首相も外国人から献金を受けていた。知って受けていたのなら大問題だ。自民党は追及する(“ねじれ国会”現象を最大限に利用して辞任を求める?)」ですって?石原幹事長がこの程度のことしか言えないから、自民党の支持率は上がらないのです。
数年間に十数万円の献金を、合法的に日本に永住している外国人(個人2人)から受けていたからといって、そのことのどこが問題なのでしょう?そんな金額で国を売るような政治家が日本にいると思いますか?そんなことがあなたにできますか?
いや、国は売らないまでも、何かと便宜を図ろうとするかもしれない?何を心配しているのです?だれかが政治献金をするのは、大方は、いつかどこかで何らかの便宜を図ってもらいたいと願っているからでしょう?財界は?産業団体は?労働組合は?おなじように、合法的に日本に永住している外国人(個人)にも図ってもらいたい便宜があっても不思議ではありません。問題になるなるべきなのはその便宜の中身と図り方です。そこに不正がなければ、いったいどこが悪いというのでしょう?
なのに、外国人(個人)から数十万円程度の献金を受けだけででも、閣僚はもちろんのこと、首相まで辞めなくてはならない?
考えてみてください。日本国民が正当な選挙で選んで多数派にした政党が政党内の手続きを経て選び出した人物が、日本の最高機関である国会で承認されてなるのが首相なのですよ。そこが根本です。その首相を、日本名の外国人が、数年間に分けてわずか数十万円の献金をして辞任に追い込むことができる?悪意に満ちた外国人がその気になれば、わずかのカネで(自民党の石原幹事長のような軽薄な人物を利用して)日本の政治を動かすことができる?…ばかばかしいと思いませんか?
しかし、外国人からの献金は法律が禁じていることではないか、法律は守るのが同然だ、ですって?はい、明らかに、その法律のどこかが間違っています。ただちに改めるべきです。まずは、外国人が日本名で献金することを禁じる、というところから手をつけてはどうでしょうか。献金を受けた政治家がおかしなことを考えないように、額に極端な制限をつけてもいいでしょう。いやいや、真の問題は、自分たちが愚かな法律をつくっておいて、それに拘泥して−−それを悪用して−−いたずらに政治を停滞させ、国の根幹を揺るがすようなことをしている(石原幹事長のような)政治家たちの、表層的なことしか考えられない頭脳にあります。
日本人はますます、根本的なことが考えられなくなっています。事の軽重の判断がつかなくなっています。そのせいで“政治の貧困”が深まっています。国内的にも、国際的にも。
上の社説で自らの“思考力の貧困”ぶりをさらけ出した読売新聞が〔政治の「脱貧困」をめざせ〕と訴えているのはある種の皮肉ですね。