第210回 “思い込み日本”には梅雨がない

  2006年の5月から住んでいるマニラ(フィリピン)はいま、雨季の真っ只中にあります。もちろん年によって異なりますが、マニラ首都圏では、だいたいのところ、6月から11月までの半年間が雨季に当たります(12月から5月までが乾季)。
  雨季とはいうものの、台風や大型の熱帯性低気圧がフィリピン近海になければ、一日中雨が降るが何日もつづくということはまずありません。青空が見えたり雲が厚くなったりしながら、ときおり、雷を伴った激しい雨が降る、というような日が典型的だといえます。
  一日の気温は、8月ならば、わたしのコンドミニアムの室内ではほぼ摂氏28度から32度ぐらいで落ち着いています。湿度はやはり高いものですからけっして過ごし易くはないのですが、おなじ時期の日本の猛暑と比べればいくらかは耐え易いと感じます。
  一方の乾季の盛りは4月と5月にやってきます。最高気温は34度ぐらいで、35度や36度まで上がることはめったにありません。「それでも、日本の猛暑とほとんど変わりない暑さじゃないか」と即断しないでください。そこは、さすがに“乾季”です。日本の、あの茹だるような湿気はありません。室内では、エアーコンディショナーがなくても、扇風機を使えば、汗にまみれることはありません。
  つまり、南国フィリピンは、平均的な日本人が好む「暑くも寒くもない」春と秋はない国なのですが、気候の面では思いのほかに住みやすいところなのです。もちろん、身を切るような寒さの冬もありませんし…。
          *
  南カリフォルニアに住んでいたあいだに、「ここには四季がないから、気分がしまらない」というような感想あるいは不平を口にする日本人と何度か出会ったことがあります。じかに反論したことはありませんでしたが、「南カリフォルニアには“日本とおなじ四季”はない」というだけのことで、心を澄ませていれば、そこにそれなりの四季を感じることは十分にできるではないか、と内心で思ったものです。
          *
  さて、そこで、どうも分からないのは…。
  日本人はなぜ、日本に梅雨という雨季、もう一つの季節があることを認めようとしないのでしょうか?北海道を除けば、日本にはほぼ一か月間にわたる雨季が明確にあるではありませんか。しとしと、じめじめ、服や下着が肌にまとわりつく…。
  そんな梅雨をすっかり外して「“四季”がはっきりしているから、日本はすばらしい」ですって?
          *
  2006年の秋に「恐怖の<愛国教育>」というエッセイを書いています(http://d.hatena.ne.jp/a20e2010/20110722/1311287762)。NHKの国際放送で見た、日本のある小学校で、ある女性教師が実験的に行っていた“愛国心”を高揚させるための授業について感想を述べたものです。
  この番組の中で、この教師は〔桜や紅葉で前景が飾られた富士山の美しいパネルを数枚用意して<四季のある日本はすばらしい>ということを生徒たちに教え込もうとしていました〕〔そのための<道具>としてこの教師は<南の暖かい国からやって来ている>スージーという女性を考案していました。そして、このスージーに「ああ、日本はいいな、四季があって。わたしの国には四季がないから単調でつまらない」というような意見を述べさせます。まるで、南国に住む人たちがすべてそう思っているかのような扱いです〕
  いや、それだけでは足りなかったようで、この〔“愛国教育”実験授業中の女教師は、彼女の主張に疑問を感じて<四季があるとなぜいいのですか?なくても美しいものは美しいのではありませんか?>というような意味の質問をした(実に冷静で聡明な)教え子(女生徒)に「だって、スージーの国では一年中、同じ花を見てなきゃならないのよ」と、脅迫的だとも思える“指導”を行い〕ます。“洗脳”というべきものだったかもしれません。
  つまり、この教師は、自分の“思い込み”を100パーセント正しいものとしてほかの意見はすべて排する、というところまで自分を“純化”させていたわけです。<日本=四季>という“思い込み”のせいで、ほかの世界がまったく見えなくなってしまっていたのです。自分には全体が見えていない、ということが分からなくなっていたのです。
  だって…。この教師の頭の中で、梅雨はいったいどこに行ってしまっていたのでしょう?新潟や山形、秋田などの厳しい冬はどう処理されていたのでしょう?
          *
  おなじころに「さざれいしの」というエッセイも書いています(http://d.hatena.ne.jp/a20e2010/20110722/1311288417)。〔大きな川を、山あいの上流から下流へと見ていくと分かるように、<いわお>が長い長い歳月をかけて川をくだって<さざれいし>になることはあっても、その逆は科学的にありえない〕という先人の指摘を踏まえて、日本人は論理や科学的な正確さには関心がないようだ、と書いたものです。〔さざれいしの いわおとなりて〕という科学的には理屈に合わない歌詞を長いあいだにわたって黙々と受け入れている日本人を憂えてのことでした。
          *
  東日本大震災福島第一原子力発電所の事故を受けて、政界を中心にして、日本は大混乱状態になってしまいました。そうなった主な原因を、わたしは、日本人がそれぞれの“思い込み”=固定観念=に囚われていてほかが見えなくなっているからだ、と感じています。自分の“思い込み”の正しさに固執するあまりに、ほかの考えや意見に耳を貸さなくなっているからだ、と思っています。
  日本人は、事実を見つめないで−−事実の裏づけがないのに−−自分の意見を述べることに慣れすぎています。筋を通して考えることができなくなっています。
  明確な四季があるから日本はすばらしい、というような、事実を極端に単純化、歪曲した“思い込み”、つまり、そんな物の考え方が、日本人をだめにしているのです。日本人の思考能力をいちじるしく矮小化しているのです。
          *
  ここには四季がないからつまらない、といったん思い込んでしまうと、南カリフォルニアの、たとえば、秋の紅葉の微妙な変化、その美しさを見落としてしまいます。しかも、その“思い込み”が、実は、たんに自分の情緒や感傷に根ざしたものであるとすれば、その見落としは大きな損失でさえあります。
  自分に都合がいい情報だけを集めて、自分の都合がいいように解釈する、というのは、世界に向かって恥じるべき、日本人の特技だと思えます。政界も、官界も、経済界も、報道界も、その愚かで危険な特技に毒されきっています。
  <菅内閣への不信任案を自公が出せばそれに賛成するぞ!><いや、いや、やはり、反対することに!><待てよ、投票の際には議場を出てしまおう!>というような、場当たり的で無責任極まりない、筋を通す意思がまったくない大物民主党員の一連の動きを思い出してください。しかも、この無節操ぶりはだれにも非難されませんでしたよね。日本の政界は、“思い込み”だけがすこぶる強大で、実は卑怯な政治手法に長けた人物が大物だといわれる歪みきった世界なのです。
          *
  自分の頭で考え、感じるようにしましょうよ。だれかに煽られ、それに乗せられて物事を考え、感じるのはやめましょうよ。もっと自由な頭を持ちましょうよ。それが何であれ、事実を見つめ、受け入れる強靭さを自分の中に育みましょうよ。
  みんながそういうふうにならなければ、日本はいま以上に混沌とした、生気のない、非生産的な国になってしまいます。
          *          *
  <あいまいな思考や論理、情報で良しとする日本人の態度が日本を危うくしています>と、同様の趣旨で書いたエッセイはほかにもあります。「第202回 野球場の距離表示からでも始めますか」(http://d.hatena.ne.jp/kugen/20110601/1306903930
  「大関魁皇の“大記録”」(http://d.hatena.ne.jp/kugen/20110719/1311069334

news.yahoo.co.jp