第209回 ネイティヴ相手に英語で軽口を楽しむ

  日本の政治状況があまりにも醜悪であることにうんざりしています。そこで、きょうは「苦言」とも「熟考」とも離れて、わたし自身の、英語を使った“軽口”体験話を書くことにしました。
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  まずは、どちらかいえば失敗話。
  前(208)回にも書きましたように、わたしは1979年にカリフォルニア大学リヴァサイド校の外国人向けのエクステンション・プログラムに参加して6か月(2学期)間、英語を学びました。そこで最初の秋学期に属することになったのは、五段階ある区分のうちの上から二番目のクラスでした。根拠も証拠も抜きに言いますと、このクラスにはトーフル=TOEFL(Test of English as a Foreign Language)を受験すれば400点台がとれる可能性がある学生たちが属していたようです。その、トーフルで400点台というのは、当時は9校あったカリフォルニア大学の一つに正規学部留学するには150点から200点ほど足りない数字だったと思います。言い換えますと、もちろん個人差はあるわけですが、平均的な日本人なら、日常的な英会話はほとんどできない、あるいは、授業で教師が話す英語が八割か九割まで分からないというレヴェルの学生たち向けのクラスだったわけですね。…少なくとも、わたし自身はそうでした。
  秋学期が始まってからまだ数週間と過ぎてはいなかったのに、つまりは、英会話などまだほとんどできなかったのに、わたしが英語教師の一人を相手にして(大胆にも!)軽口を交わす気になったのは、この30歳代の女性教師の名がボニーだったからです。彼女のクラスに出るたびに「ああ、ボニーといえば、ウォーレン・ビーティーフェイ・ダナウェイが競演したあの“暴力”銀行強盗映画<俺たちに明日はない>(Bonnie and Clyde 1967)の女主人公の名がそうだったな」と思っていたからです。
  ある日の午後のことです。次のクラスに向かうボニーが隣の棟から出てきました。きょうこそは、と心の準備をしていたわけではなかったのに、わたしの口が開きました。…そのうちにボニーにこう言ってやろうと、やはり、日ごろから考えてはいたのですね。
  "Hello, Bonnie, where is Clyde today?" (ハロー、ボニー、クライドはきょうはどこにいるの?) もちろん、映画では常にボニーと行動を共にするクライドがきょうはそばにいないじゃないか、と教師ボニーに言ったつもりでした。
  教師ボニーは、不愉快だという表情ではありませんでしたが、にこりともせずに、ただ"Old joke."と吐き捨てるように応えました。失敗!
  思えば、アメリカの大恐慌時代に実在した、この銀行強盗カップルは、たしかに、あまりにもよく(英会話ができない日本人でさえ知っているほどに)知られていました。ボニーと来ればクライド。つまり、わたしの軽口は、教師ボニーがそれ以前に数え切れないほど投げかけられていた(聞き飽きていた、使い古された)ジョウクだったのですね。教師ボニーが微笑みもしなかったのは、まあ、当然だったわけです。
  いえ、凡庸なジョウクであることはわたし自身が分かっていましたから、ボニーの、いわば冷たい反応は織り込みずみでした。逆に、英語を学びに来たばかりの日本人が頭をひねって英語で吐き出したジョウクだから笑ってやろう、などという配慮や親切心がボニーにあったなら、こちらがひどく赤面していたことでしょう。"Old joke."と素っ気なくあしらわれたことで(何といいましょうか、そう)一人前に扱われたようで、妙に誇らしい気がしたものです。
  英語のネイティヴ・スピーカーを相手にしたわたしの“軽口修行”は、とにかく、そんなふうに始まりました。
  始まりはしましたが、こちらで考え、短い文をこしらえて、相手に言いかけることはなんとかできるけれども、それに対して英語の早口で反応されるとそれが聞き取れないという、惨めな状態がずいぶん長くつづきました。相手がおもしろがったかどうかは、反応の言葉ではなくて、その表情を見て判断するしかなかったわけです(そういう意味では、教師ボニーの短い反応は実にありがたいものでもあったのですね)。
  ゴルフコースでたまたま一緒にプレイすることになった若者、大型家電チェインの店員、ごみ収集従業員…。とにかく、だれかを相手にした軽口を思いつけば(懲りもせずに、といいますか、よく言えば、臆することなく)話しかけていたのです。
  さて、二つ目は成功話になります。
  そういう地道な(?)“修行”が実る日が1990年代の半ばにやってきました。南カリフォルニアのある大学に次女を留学させていた、高校時代のクラスメイト(男性)が訪ねてきたときのことです。マリーナ・デル・レイの<チーズケイク・ファクトリー>で食事をしたいとの娘さんの希望に沿って、そのレストランに三人で出かけました。
  このレストランでは、その名が思わせているものよりはうんと幅が広い料理を出します。肉も魚介類も、パスタもサンドウィッチも…。
  三人がついたテイブルを担当するウェイトレスは細身の、30歳代と見える白人で、(いま重要なこととしては)笑顔を絶やさない、すごくユーモアのセンスにあふれた人でした。水を運んでくる、注文を取りにくる、飲み物をサーヴする、そのたびにわたしたちをなんとか笑わせようと努めていました。友人のために簡単に通訳をしたりしながら、このウェイトレスとのやり取りをわたしも楽しんでいました(わたしの英会話力は、そのときまでに、まあ、その程度には向上していたということでもあります!)。
  さて、注文した料理を彼女が運んできました。ところが、わたしの友人がその席にいません。手洗いに立っていたのです。
  そこで、空いている席をあごで指し示し、にんまりと笑いながら、ウェイトレスが言いました。"Well, where is the invisible man there?" (あれ、そこの、透明人間=姿が見えない男性=はどこに?)
  言い返す軽口をすぐに思いつきました。"Wait a minute, you said 'invisible man'. How can you say it's a MAN, while you can't see it?" (待ってよ。<姿が見えない“男性”>って言いましたよね。見えないのになんで“男性”って言い切れるわけ?) 見えないのだったら“女性”かもしれないじゃないかと、ウェイトレスの、いわば、揚げ足を取ったわけです。
  彼女はずいぶん悔しがりました。苦笑いするのが精一杯だったぐらいに。
  1979年の秋から(日本で過ごした5年間ほどを含めて)15年あまりが過ぎていました。わたしは、ウェイトレスの悔しがりぶりを見ながら、自分の軽口修行がここに実った、とひそかに感動していました。…控えめな充実感に浸っていました(ははは!)。
  それに気づいたわけではなかったのでしょうが、ウェイトレスは最後に柔和で優しげな笑みをわたしに投げかけて三人のテイブルから去って行きました。食事がいい、楽しいものになったことは言うまでもありません。
  地道に一つ事をやりつづけてきたのに結局は実らなかったということも現実には多いのですから、あのとき味わった“充実感”はちょっとした幸運がもたらしたものだったのかもしれませんね。…いい思い出になっています。
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  英会話に興味がある人は 「第17回 こういうのは日本語でどう?」(http://d.hatena.ne.jp/a20e2010/20101223/1293062553)も読んでみてください。