恐怖の<愛国教育>
2006-11-23 ステアク・エッセイ =35=の再掲載
黙っているときではないかもしれませんよ
*
NHKの番組「クローズ・アップ現代」をマニラのケイブルテレヴィでも見ることができます。
−
この番組で先日、恐ろしいものを見てしまいました。初めのうちは、気を集中させて見ていなかったもので、正確な再現がここでできないのが残念ですが、わたしが<恐ろしい>と感じたのは、日本のある小学校である女性教師が実験的に行っていた“愛国心”を高揚させるための授業が紹介されたときでした。
この教師は、桜や紅葉で前景が飾られた富士山の美しいパネルを数枚用意して<四季のある日本はすばらしい>ということを生徒たちに教え込もうとしていました。
そのための<道具>としてこの教師は<南の暖かい国からやって来ている>スージーという女性を考案していました。そして、このスージーに「ああ、日本はいいな、四季があって。わたしの国には四季がないから単調でつまらない」というような意見を述べさせます。
まるで、南国に住む人たちがすべてそう思っているかのような扱いです。
こういう画一化を一方では<偏見>と呼ぶのではありませんか。教育の場で育てられ、煽られた<偏見>がファシズムの大きな武器として使われたのはそんなに遠い昔のことではありません。
この教師自身は<南の国>に長年住んだことがあるのでしょうかね?あったうえで自分が<日本は四季があるからいい>と思ったというのなら、それはこの教師の意見として何の問題もありませんよね。ですが、この教師はスージーとかいう、自分が考案した女性に日本を美化するだけではなく、自分の国を卑下するようなことを言わせているのです。僭越というより、まったくの傲慢です。
もっと恐ろしい場面がありました(ここをちゃんと見ておかなかったことが悔やまれます)。
ある女生徒が<四季があるとなぜいいのですか?なくても美しいものは美しいのではありませんか?>というような意味の質問をしたのです。
わたしはこの生徒の感性のすばらしさにすっかり感心してしまいました。
同じNHK国際放送で別の日に、ペルーの山岳地域にすむ人たちの暮らしを紹介した番組がありました。海抜3,500〜4、500メートルという場所で数種のジャガイモも作り、数十頭の家畜を飼いながら生きる家族に焦点が当てられていました。
男の子二人、女の子一人という子供たちのうちの長男は、将来は(同じ山岳地帯内の小さな、市場や学校があって、ある程度賑やかな)町に住みたいと考えていますが、次男(14歳)と娘(9歳)はずっといまの場所で暮らそうと考えているようでした。そこでの暮らしが好きだからです。
<こんな風呂もシャワーもないところで?学校に行くのに二時間以上も山道を駆け下りなくてはならないのに?食べるものといったらジャガイモしかないのに?>とあなたは問いかけますか、この子たちに?
美しいものは美しいのです。好きなものは好きなのです。その感じ方を誰かに強制することはできないのです。強制してはいけないのです。
“愛国教育”の実験授業中の女教師は、彼女の主張に疑問を感じた女生徒に「だって、スージーの国では一年中、同じ花を見てなきゃならないのよ」と、脅迫的だとも思える“指導”を行い、NHKのナレイションによると、この女生徒も最後には<日本の方がいい>という意見に同調したということでした。
恐ろしい、と思いませんか?
何を美しいと感じるべきかを強制的教えるのが<愛国教育>なのです、この教師には。
放っておくと、やがて日本中の学校がこういう教師であふれるようになってしまうかもしれません。…戦前のように。
<教育改革><愛国心の高揚>などを謳い上げている安倍首相の狙いはそこにはない、と言い切れますか?
煎じ詰めれば、事が何であれ、お上が<こう感じなさい>といったらそう感じろ、ということなのですよ、この手の<愛国教育>というのは。
たとえ、一年中同じ花を見るしかない国があったとしても、その国の人たちがそれを退屈だと感じているかどうかは、知りようがありません。外国人が決めつけることではありません。それは、まして、外国の教師がそうだと信じて、教育の場で、生徒たちに偏見として教え込むべきことではありません。
他の国の人たちが彼ら自身の国を愛しているという事実を教えない<愛国教育>は実に危険です。それはむしろ<亡国教育>です。