第325回 フィリピンがこんなふうに利用されると…

  大ベストセラー【THE DA VINCI CODE】の作家DAN BROWNの六作目の小説 【INFERNO】を、発売されて間もないペイパーバック(ANCHOR BOOKS)で、数日前に読み終えました。
  読み終えましたが、普通だったら当然そこにあっていいはずの充足感がありません。というよりは、むしろ、後味が悪い思いに少々囚われています。
  この小説の主要人物の一人の世界観と人生観を根本的に覆すことになる重要な出来事が、この世界的な大ベストセラー作家のものとは信じにくいほど安直に、マニラで起こった、とされていたからです。…それがどうしてもマニラで起きなければならなかったという必然性が読み取れなかったからです。
               *
  ストーリー展開を明かしてしまわない範囲で、マニラがどういう都市として描かれているかといいますと−−
  ・And so when the group(人道的慈善団体)settled in among the throngs(群衆)in the city of Manila - the most densely populated city on earth (地球上で最も人口密度が高い都市)- ..... (P.465)
  ・She had never seen poverty on this scale(ここまでひどい貧困を彼女は見たことがなかった).(P.465)
  ・Manila had six-hour trafic jamas(6時間にもなる交通渋滞), suffocating pollution(息がつまるほどの環境汚染), and a horrifying sex trade(恐ろしい性売買)..... (P.466)
  ・Amid this chaos of child prostitution(児童少年少女売春), panhandlers(物乞い), pickpockets(すり) .....(P.466)
  ・All around her, she could see humanity overrun by its primal instinct for survival(自分の周りのいたるところで彼女は、生き残ろうという根源の本能に人間性が破壊されるところを見ることできたのだった).(P.466)
  ・When they face desperation ... human beings become animals(絶望的な状況に直面すると、人は動物になるのだ). (P.466)
               *
  マニラのフィリピン人を見てこの主要人物は「絶望的な状況に直面すると、人(という存在)は動物になる」と思うようになるわけです。
  そういう思いは、場所が限定されていなければ、必ずしも、まったくの的外れなものではないでしょう。
  しかしながら、この主要人物がそう思うようになる原因として挙げられている「人口密度の高さ」「貧困」「交通渋滞」「環境汚染」「性売買」「児童少年少女売春」「物乞い」「すり」などは、マニラでだけではなくて、世界中の多くの貧困都市ででも見られることではないか、と思いませんか?
  ダン・ブラウンほどの作家ならば、それがマニラでなければならなかった理由をきちんと示すべきだった、と思います。
  その活動振りに関心を抱いて、この主要人物が、ある人道的な慈善団体に加わったところ、そこで初めて連れて行かれることになった先がたまたまマニラだった(When they invited her to join them on a monthlongtrip to the Philippines, she jumped at the chance. P.465)というだけの軽い設定では、ここに描れたさまざまの惨状をそのままにマニラの現実として受け入れたくはない、この部分はほかの貧困都市を舞台として書かれていてもよかったのではないか、とどうしても感じてしまうのです。
               *
  この作品は2013年に上梓されています。ストーリーの時代背景もすこぶる今日的です。そして、この主要人物がマニラを訪ねたとされているのは、その「今日」のほんの数年前のことです。
  そのころのマニラはすでに高度成長の真っ只中にあって、ここに描かれた惨状は、もう存在しないとはとは言い切れなかったはずですが、マニラの実情を特徴的に示すものではなくなっていました。
  ですから、この作家がこの主要人物の世界観・人生観の大転換の理由を下のように書いていても、そこに強い説得力があるようには感じられないのです。
  ・Her panic attack in the crowded streets of Manila had sparked a deep concern (懸念、心配)about overcrowding(過密) and world population(全世界の人口). 「人で込み合ったマニラの通りでパニックに襲われたことで、過密と世界人口(の問題)についての深い懸念が彼女の中で燃え盛ることになった」(P.470)
  この小説のタイトルである「INFERNO」(地獄)を暗示するものを、この主要人物がそのころのマニラに見たとする設定には無理がある、としか思えないのです。
               *
  その「無理」を理由として、わたしは、ダン・ブラウンの全六作品のうちではこの「INFERNO」の出来を最下位に置くことにしました。…十分には楽しむことができなかったのです。
  ダン・ブラウンは、自分のストーリーの展開を容易にするために、マニラとフィリピンに向けられる偏見を安直、気軽に利用しただけなのではないか?。
  この主要人物が自分の世界観・人生観を根本から変えることになった体験はマニラででなくても起こりえたのではないか?
  これといった説得力がある理由もなしに、なぜマニラ、フィリピンが選ばれたのか?
               *
  この小説でダン・ブラウンはマニラとフィリピンへの偏見を不用意に助長してしまったと思います。
               *
               *