第363回 20年ほど前に書いた物語

  1995年から96年にかけて一篇の小説を書いたことがあります。
  友人のビジネスを助ける形で、日本との間を行きつ戻りつしながらも合わせて半年間ほど滞在したマニラでの体験を基にして創り上げた物語です。
  まずは英語で書き上げました。英語はマニラで(物語に書かれたようには滑らかではありませんでしたが)日常的に使っていた言葉でしたし、後に小説のストーリーに昇華した“体験”はその英語で頭に刻まれていたのですから、そうするのが自然な成り行きでした。
  日本語に“翻訳”したのはしばらく時間を置いてからでした。
  タイトルは……
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  英語版が : "Drifting About In Dreams - Memoir Of A karaoke Singer" http://d.hatena.ne.jp/Trina1996/20110201#1296547103
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  日本語版が : 「夢をただよい − あるカラオケシンガーのメモワール」 (http://d.hatena.ne.jp/Trina/20081209) 

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  今年の5月には「フィリピンに移住してから10年」という節目を迎えます。
  この物語を書き終えてからは20年になります。
  そこで、この小説を、その書き出し部分だけでも「苦言熟考」で紹介してみようと、ふと思いつきました。
  英文には文法的な間違いや最適とはいえない用語なども少なくないかもしれませんが、あればそれを当時の“自分の英語力”の実状を示すものとしてそのまま残しておいた方がいいと考え、あえて修正する手間をかけることなく掲載することにしました。
  日本語版は、日本語としての“流れ”を重視して“翻訳”しています。

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  さて、物語の時は1984年……
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August, 1984 -- Chapter 1 --
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  “Nothing, I’ve been just wandering about Metro Manila, instead, perhaps, looking for..." Takano-san hesitated in the middle of his answer. And then his hesitation turned into a sudden wry smile. “Well, looking for ’something'. ...Though I have no idea yet, Trina, what that ’something' might be."
   That was what Takano-san replied to my routine, first question to him, ‘So, what do you do here in Manila, Takano-san, for a living?'
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   During those days, Manila was one chaotic metropolis in the midst of lingering recession. Unable to establish their lives as satisfactorily as they hoped for, people were heatedly competing one another, trying to push others away from their ways to the better future, with haves wanting more than what they already had and have-nots demanding their portions of shares, anywhere, anytime, no matter what they were.
   Right in front of such Filipinos, foreigners, such as Americans, Saudi Arabians and Japanese, were enjoying almost extravagantly all kinds of privileges given only to them, that is, inaccessible to most Filipinos, while individually showing off the strong economic powers of their mother countries.
   Takano-san was one of those foreigners. So, there was no reason that he should be the only foreigner who must be prohibited from doing what he wanted to do in the Philippines. I would not have been surprised too much or disgusted particularly, much less have rebuked him, even if he had told me, for example, ‘To be frank with you, Trina, in Manila, I’m looking for a Filipino woman whom I want to have as my mistress.'

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〜フィリピン〜  =一九八四年= 八月 〈一〉
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  「何も…。メトロ・マニラをただ歩き回っているだけ。たぶん、何か…」
  高野さんは答えの途中でためらった。そのためらいが唐突に苦笑に変わった。「何かを探しながらね。…その〔何か〕がいったい何なのかは、トゥリーナ、自分でもまだよく分かっていないんだけど」
  〈で、高野さん、マニラではどんな仕事をされてるんですか〉という型どおりの、わたしの最初の質問に、あの人はそう答えたのだった。
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  あのころのマニラは、経済不況がつづく中、望む暮らしが立てられない人々が、他人を押しのけてでも自分の道だけは開きたいと互いに激しくせめぎあっている、豊かな者が持っている以上にほしがり、貧しい者がどこかで何かの分け前にあずかろうと必死になっている、混沌とした大都会だった。
  そんなフィリピン人たちの目の前で、ビジネスや観光を目的にマニラにやって来ている、アメリカ人やサウディ・アラビア人、それに日本人などといった外国人たちは、それぞれに母国の強い経済力を見せつけながら、自分たちだけに与えられた、つまりは、大半のフィリピン人には手が届かない、あらゆる特権を十分すぎるほど楽しんでいた。
  高野さんもそんな外国人の一人だった。あの人に限っては自分のほしいものを追い求めてはいけない、という理屈はなかった。だから、仮に、あの人があのとき、たとえば、〈実は、情婦にするフィリピン女をマニラで探しているのだ〉と告白していたとしても、わたしはひどく驚いたり、格別にいやな思いをしたり、ましてや、あの人を咎めたりはしていなかったはずだ。
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  今日の「苦言熟考」は、「加州毎日新聞」に1987年から90年にかけて掲載したコラム「時事往来」(http://d.hatena.ne.jp/ourai09/)だけではなく、筆者の過去のこんな創作経験ともつながっているわけです。
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