第203回 「不打不成交」

  6月10日(2011年)にNHKの国際放送を見ていたら、昔の出来事の映像を、そのころ流行していた歌謡曲に載せて見せる短い番組に行き当たりました。この日に紹介された出来事は1972年9月の〔日中国交回復〕です。バックの歌は小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」でした。
  映像に登場したのは田中角栄首相と周恩来中国首相、それに毛沢東中国国家主席。中でわたしの目が引きつけられた場面は田中・毛会談の際に毛主席が田中首相に(NHKの字幕どおりではないかもしれませんが)「周恩来首相とは(もう)けんかをしましたか?けんかをしなければ友達になれませんよ」と話しかけた個所です。
  「ああ、これだ」と思いました。
  というのは…。
  昨(2010)年の2月初めに、マニラに来ていた兄夫婦とその友人一人が日本に戻る途中で台北に寄るというのに便乗して、わたしも2泊3日の台湾旅行を楽しみました。いえ、中国語はまったく聞くこともしゃべることもできなかったのですが…。
  少しでも理解できていたらもっと楽しかったはずだ、という思いがあったからなのでしょうね、数か月後の6月に、今度はわたしが日本を訪ねた際に、兄夫婦の家から遠くないところにある〔100円ショップ〕の小さな棚に「とっさのひとこと 中国語会話」という小冊子が無造作に置いてあるのを目にしたときには、少しも迷いませんでした。すぐにそれを買うことにしました。中国語というのはどんなふうにできあがっているのだろうか、という興味を満たすのに、初歩会話のための“100円”の簡便本というのは、まあ、その興味がすぐに失せたところで「惜しい」と悔やむ値段ではないし、実に手ごろでもあったわけですが…!
  マニラに戻ったあと、その小冊子のペイジをめくっているうちに、中国語の簡単な文法も知っている方が、理解が深まるに違いないと考えるようになりました。そこで、インターネット上の、初心者向けの中国語講座を訪ねてみることにしました。
  さて、さて、そのサイトで偶然に出合ったのが「不打不成交」という中国のことわざだったのです。「ケンカしなければ友達になれない」という訳が付されていました!
  2010年の秋に起こった、尖閣諸島での中国漁船による、日本の海上保安庁の巡視船への衝突事件について、「苦言熟考」は三つのエッセイを書いています。
  第177回 「尖閣ビデオ」流出の意義 (2010年11月5日) http://d.hatena.ne.jp/kugen/20101105/1288931776
  第178回 「流出」で損なわれた国益はない (2010年11月11日)http://d.hatena.ne.jp/kugen/20101111/1289432899
  第179回 空騒ぎはもういらない (2010年11月19日) http://d.hatena.ne.jp/kugen/20101119/1290163910
  これらのエッセイの中でわたしが述べたのは、たとえば、〔だいたい、あの<尖閣ヴィデオ>には、日本の国家機密や国益に関わる重要な価値はありません。日本政府が中国政府に、早々に、見せていたところで、中国政府は「これで実情が分かった。中国の漁船が悪かった。このことで反日感情が高まらないようにする」などとは絶対に言っていなかったでしょう。船長よりも先に帰国した漁船員たちから事情を聴取して、中国政府は何もかも知っていたのですよ。知ったうえで、この事件をどう利用すれば対日関係で優位を保つことができるか、と考えていたに違いありません。<尖閣ヴィデオ>には、中国政府に対して、水戸黄門の印籠並みの“効能”があったはずだ、というような主張は、あまりにも子供じみています。<尖閣ヴィデオ>を中国政府がどの時点で見たかは、事の本質=尖閣諸島を中国政府が中国領だと主張していること=とは何の関係もありません〕というようなことでした。
  インターネットの中国語講座で「不打不成交」ということわざに出合ったのは、こんなエッセイを書いてから半年以上が過ぎてからでした。
  出合ってみて、上のエッセイの中で、たとえば、「中国漁船に非があることがヴィデオで明らかになったところで、中国政府が日本に謝罪することはない」などと述べていたことの根拠の一つがここにある、と感じました。なにしろ、中国には〔ケンカしなければ友達になれない〕ということわざがあるのですからね。ちょっとした“証拠”を見せつけられたぐらいで早々に“悪かった”と中国政府が言うわけはないのです。まず〔ケンカ〕。それも、おそらくは、感情的なものではなくて、計算されつくした…。友好的に話し合うのはそのあとのことなのです、中国人にとっては。
  〔尖閣ヴィデオ〕をめぐって空騒ぎに終始した政治家や報道機関などを、「不打不成交」ということわざを使って、そうですね、皮肉るようなエッセイを書こうかと真剣に考えました。中国政府の考えがああだこうだと、的が外れた方向から顔色をうかがうようなことを言う前に、日本人はまず中国人のことを知らなければ、と。
  ところが、そこのところにいささか問題がありました。初心者向けの中国語講座で紹介されていることわざなのですから、中国人の典型的な考え方がこれから知れるはずではあるのですが、さて、どの程度に“典型的”なのか?中国人が日常生活の中でどれぐらい使うことわざなのか?わたしには分かっていませんでした。
  皮肉るエッセイは、結局は、書きませんでした。実はあまり普及していないかもしれないことわざを基にして、中国人というのはこうなのだと決めつけて、誰かを批判したり皮肉ったりするのはフェアではありませんからね。
  ところが…。
  このことわざを、1972年に、日中国交回復のための二国間のやりとりの中で、毛沢東主席が田中角栄首相に向かって使っていたのです!中国人のあいだで、このことわざはそれほど広く知られたものだったのです。
  〔尖閣ヴィデオ〕の扱い方に関して、前原外相(当時)の強硬な発言・姿勢は中国の反発を招いて両国関係を悪くする、というような批判がありましたね。ですが、どうです?たしかに、前原外相の姿勢を非難する声明が中国側から聞こえてきはしましたよ。ですが、そんなことで両国関係をただちに悪くするほど中国政府は子供ではなかったのです。
  初めにケンカするのは当たり前。
  読売新聞は11月18日(2010年)の社説に<そもそも、衝突事件発生直後に映像を公開していれば、その後の中国との軋轢(あつれき)は防げた可能性があった。今回の映像流出も起きなかっただろう>と述べていました。なんと子供じみた甘い意見でしょう。
  〔軋轢〕は中国政府にとって、いわば、お手の物なのです。中国人にとっては、軋轢がなければ本当の解決はない、のです。
  対中関係だけではありません。二国間に何らかの摩擦があるどのような国際関係ででも、基本は、おそらくそうなのでは?
  言うべきことが分からずに、相手国の顔色をうかがうだけの外交では、侮られるだけで、どこの国とも〔友達になれない〕はずです。
  日本の政治家・報道機関には、もうそろそろ、大人になってもらいたいものです。…まだ手遅れになっていないのであれば。