第200回 「シニアー・シティズン」+「“一所懸命”を好む」

  クリント・イーストウッド主演の映画『イン・ザ・ライン・オブ・ファイアー』(ザ・シークレット・サービス)の再放送をまた観る機会がありました。大統領暗殺を企てる男をシークレット・サービスの超ヴェテラン大統領警護員であるフランク・ホリガン(イーストウッド)が追う、スリリングな映画なのですが、再放送を観るたびに最も鮮明に記憶に蘇ってくるのは、おかしなことに、1993年に封切られたときに、ロサンジェルスの東に位置するアルハンブラ市内の映画館で耳にした、後ろの座席にいた30歳ぐらいの男性が隣のガールフレンドと見えた女性につぶやいたひと言です。
  フランクと彼の同僚の若い女性警護員、リリー・レインズがワシントンDCのリンカーン・メモリアルの石段で会話するシーンでした。フランクがリリーに<君はどんな人間グループを代表してこの仕事をやってるんだ?>というようなことを尋ねます。リリーは<フェミニストね>と答えたあと、フランクに<あなたは?>と尋ね返します。フランクは<白人の男で…>と答え始めます。そのときに後ろの男性が女性にこうつぶやいたのです。<シニアー・シティズン!>
  連れの女性の笑いに遅れることなく、わたしも「なるほど!」と笑いを噴き出してしまいました。
  フランクは1963年にケネディー大統領が暗殺されたときにも大統領を警護していたのですから、映画のストーリーの中では警護員歴30年。若ければ50歳代後半でしょうが、もしかすると60歳になっているかもしれない男です。後ろの座席の男性にはフランクがそう見えても仕方がありませんでした。笑ったわたし自身もまだ40歳代の後半でした。
  映画をアルハンブラで観たときからすでに18年が過ぎています。いまではわたしが正真正銘のシニアー・シティズンになっています。日本でなら高齢者、お年寄りと呼ばれても不平が言えない年齢ですね。気は十分に若いものだから、周囲からはそう見られているのだということをつい忘れてしまいます。やはり、気をつけるべきなのかもしれません。再放送を観て、そんなことを考えさせられました。
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  日本人がほとんど使わなくなった言葉の一つに「一所懸命」があります。
  「一所懸命」の「一所」というのは「同じ所」という意味です(「新潮国語辞典」)。「保元物語」が書かれた時代に使われだした「一所懸命」という言葉は、もともとは「一個所の領地に生命を懸けて生活すること」という意味で使われていたということです(同)。その「一所懸命」がやがて「一心に骨折ること」「必死」(同)というような意味で普通に使われるようになりました。
  ところが、近年になって、この由緒ある「一所懸命」はほとんど駆逐されてしまいました。駆逐したのは「一生懸命」という、なんとも大仰な言葉です。
  「一生懸命」が“大仰”だと言うのは、何かを短いあいだに限って「懸命」にやることはできても、その懸命さを「一生」持ち通すことは自分にはとてもできない、という思いがあるからです。「一所」=「同じ所」でなら、つまり、こここそが大事と思われるところで短いあいだならば「懸命」でいられるだろうが、「一生」は無理だ、と感じるからです。
  そもそも、人というのは「一生」ずっと懸命でいられるように強くつくられているものなのでしょうか?ときには気を抜きたくもなるだろうし、しばらくはそのことを忘れたいときもあるのではありませんか?
  いや、いや、他人がどうであれ、自分はそれほど強くないことが分かっていますから、「一生懸命」という重々しい言葉はずいぶん前から使わないことにしています。性に合わないのです。
  ですから、「一所懸命」という言葉を日常会話から抹殺しないでください。
  「一生懸命」などと大きく構えなければならない場面が、あそこでもここでも、だれにでも、日常的にくり返されるとは、やはり、どうしても思えません。