第108回  日本のジョシはあまりにも虐げられている!

  南カリフォルニアからフィリピンに移住してからまだ間もないころ、日本に住む兄が「平成うたものがたり」という演歌のCD集(全12枚 192曲)を送ってくれました。「まあ、暇なときに聴けよ」というわけです。ありがたいことです。
  その192曲をこれまでに、すでに何度か聴きとおしています。
  演歌の世界とは遠く感じられるアメリカでの暮らしが20年間を超えたわたしですが、まあ、ああいう歌は昔からけっこう好きなのですね。

  さて、その中に2曲だけ、どうしても好きにはなれない歌があります。ともに、「いやだな、歌詞のこの部分」と感じてしまうところがあるのです。
  「こんな日本語は汚い」「ジョシをこんなふうにないがしろにするのは罪だ」と思ってしまうのです。

  一つは「女のかぞえ歌」吉幾三(作詞・吉幾三 作曲・吉幾三)。
  嫌いな(不快にさえ感じる)個所は歌の出だしの「潮風乗って港のカモメ」という部分です。

  他の一つは「やんちゃ酒」小林幸子(作詞・荒木とよひさ 作曲・弦哲也)。
  「あたしが この人 ついていなければ」という、曲の中で三回くり返されるこのサビの部分を聴くたびに気がふさがれてしまいます。

  なぜといって…。

  いまの日本語では「は」(wa)や「が」(ga)が省略されることは少しも珍しいことではありませんよね。いえ、むしろ、しゃべり言葉では、抜ける方が多いのかもしれません。
  ニュースの天気予報で「きょうの東京(は)、雨になりそうです」などといったぐあいです。
  
  「を」(wo)も省かれることが多くなっています。
  ふつうに、「何(を)食べる?」「わたし(は)、餃子(を)食べる」というように言います。

  わたし自身は<今日の日本では「は」も「が」も「を」も軽視されすぎている。そのために日本語から“品”が失われていっている。ジョシ(助詞)をここまでいたぶらない方がいい>と感じていますが、悔しいことに、この“ジョシ軽視”の傾向は今後ますます大きくなうだろう、と思い始めてもいます。

  ですが、「に」(ni)も使わないですませる?
  わたしには理解できません。

  「潮風乗って」ですって?
  言葉足らずの、気持ちが悪い表現です。「潮風乗って」は日本人が使う、ちゃんとした日本語になっていません。
  ここは「潮風に乗って」でなければなりません。
  曲をつける際に吉氏は、「潮風に乗って」では一字余ってしまうと考えたのかもしれませんが、わたしには、「潮風乗って」の方がはるかにグロテスクに聞こえます。

  一方の「わたしが この人 ついていなければ」…

  聴いて胸が悪くなるぐらいに奇を衒いすぎた詞ですよね。
  「この人 わたしが ついていなければ」でなぜいけないのかが、わたしには分かりません。これだと「この人」のあとには「は」または「には」が略されているのだということが理解できますから、歌詞をそのまま受け入れることができます。
  しかし、「わたしが この人」と言ってしまえば、「この人」のあとにはどんな助詞を持ってくればいいのでしょう?
  一番考えられるのは、やはり、「に」または「には」なのでしょうが、「わたしが この人に(は) ついていなければ」では、そもそもあまり良い日本語ではありませんし、歌詞としても落ち着きが悪いものになってしまいます。

  どうしてこういう不恰好な歌詞が生まれるかというと…。
  いまの日本人が助詞を大事にしなくなっているからです。「は」や「が」「を」だけではなく「に」も不要ではないかと、一部の日本人が感じ始めているからです。

  NHKの国際放送で見聞きするところからだけでも“助詞の軽視”は明らかです。
  <通常国会、冒頭から荒れ模様デス>
  <いまの渋谷の様子、ご覧ください>
  しかし、そのNHKでも、まだ、「に」を省くところまでには到っていません。<石川遼選手、マスターズ出場デス>といった(省略過剰で幼稚な)気味が悪い表現はしょっちゅうしますが、<石川遼選手がマスターズ出場します>とまでは言いません。<マスターズ出場します>と言います。

  そのNHKなどに先行して、演歌の作詞家が「に」を邪魔者扱いし始めてます。
  オソルベキ傾向です。日本語がますますアブナクなっています。
  もっと助詞を大事にしないと、日本語が醜くなってしまいます。
  
        *

  これは「平成うたものがたり」の中にはありませんが、伍代夏子の「恋ざんげ」(作詞・吉岡治 作曲・猪俣公章)にも「海峡こぎだす 櫂もなく」という、助詞「に」を省いた、日本語を侮辱するような歌詞があります。