第249回 「梅ちゃん先生」 もう見ていられません −1−

  NHK日本放送協会)の朝の連続テレビ小説梅ちゃん先生」をとうとう見なくなりました。
  いったん見始めた連続テレビ小説は、これまでは、そのできがいくらか悪いと思っても、6か月間にわたって、まあ、なんとなく見つづけましたから、途中で見なくなったのはこれが最初のことです。
  いえ、見なくなった、というよりは、見ていられなくなった、というのが正しい表現ですね。その最大の原因は(主演している堀北真希の、深みがない単調な演技にではなくて)このドラマの脚本の、あまりにも現実から乖離したでたらめ、無責任ぶりにあります。
  当然のことながら、ノートやメモをとりながら見ていたわけではありませんでしたから、正直に言いますと、どこがどう“でたらめ”だったかを100パーセントの正確さで再現することはできませんが、記憶を頼りにして、まず一つだけ、例を挙げてみますと…。
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  ☆女学校までは勉強嫌いで、将来への目標もこれといって持っていなかった梅子が、戦後すぐに、急病になった顔見知りの少年が医者に助けられるところに立ち会ったことから、(大学病院の教授である父親も含めて)周囲の者すべてにとって実に唐突だったのですが、「医者になりたい」と言い出します。−−梅子の現実は、父親が言うように「お前には無理だ」というところでしたが、このことに特に問題はありません。とにかく、人生で初めての目標が梅子にできたのですから。
  ☆終戦直後のことで、医者になりたいという者の絶対数が少なく、合格点も低かったもので、本来なら見込みがないはずだった梅子も女子医大に合格してしまいます。−−これもまあいいでしょう。人生が運に左右されることは現実にもあるのですから。
  ☆梅子も含めて5人組の仲良しグループができます。そして、ある日のこと、上級生数人がこの5人に声をかけます。「横須賀にある海軍省の倉庫が、戦争中に溜め込んでいた医薬品や医療器具を、先着順に無料で放出することになった。学校のためになることだから、あなたたちのグループがもらいに行ってきなさい」−−さあ、おかしくなってきました。敗戦の直後ですよ。日本中の医療機関、病院が、喉から手がでるほどにほしがっている物を「だれにでもやります。さあ、好きなだけ持って行きなさい」ですって?仮にそんなことがありえたとしても、女子医大の上級生にそんな情報がやすやすと入ってきます?入ってきたとすれば、何人かのグループではなくて、医大全体で取り組んでもいいような話でしょう?いや、いや、そんなことの前に、たとえば、海軍省の高官と闇の業者か何かが共謀してどこかに横流ししてしまう、というようなことの方が、当時としては、やはり、よほど現実的ではなかったでしょうか?
  ☆それぞれにリュックサックを背負った梅子たち5人がその倉庫に来てみると、その医薬品や医療器具が、あるはあるは!−−梅子たちが(おそらくは、闇屋や買い出し人などで大混雑していた鉄道を乗り継いで)東京からかけつけたときまでには、如才ない者たちが次々とトラックで乗りつけて、ほとんど何も残らないほどに持ち去っていた、という話ではないのです。
  ☆リュックサックに入れて学校に持ち帰るだけでは足りない、もっと持って帰りたい、と考えた梅子の目に、空の荷車を馬にを引かせている男が見えました。梅子は、その男に頼み込んで、医薬品や医療器具などを東京まで運んでもらうことにしました。−−運ぶ料金をいくらにするかというような場面はいっさいありませんでしたので、戦後の混乱期にもこんな善意もあった、と脚本家や演出家は言いたかったのでしょうかね?
  ☆男は馬を御して荷車を東京へと進めてくれます。ところが、途中の山道で(梅子たちに苦労をさせたい脚本家の思惑で!)馬が足を傷めてしまいます。これでは東京まで荷車を引かせることはできない、と言って、男は医薬品などを積んだ荷車をそこに残して、馬とともに去ってしまいました。−−さあて、男は持ち前の善意を上積みして、この荷車を梅子たちにくれてやったのでしょうか?まさか。終戦直後ですよ。男にとって、荷車は暮らしを支えるカネを稼ぐための貴重な道具・手段だったはずですよ。なのに、荷車はどこでどういうふうに返せばいい、という話もまったく出てきませんし、そのことについては梅子たちもすっかり無頓着です。他人の善意はもらいっぱなし、礼はなし、というのでは、東京蒲田に生きた、人好きで善良な「梅ちゃん先生」という主題が変になってしまうではありませんか。
  ☆山道に雨が降り出します。荷車を押して東京まで戻るのは不可能だ、という疲れ果てた仲間たちを励ますつもりだったのか、梅子は「わたし一人ででも押して帰る」と、雨に濡れながら、荷車を押し始めます。−−梅子の崇高な意思が仲間たちの心を打ち、皆の力で、荷車が動き始めるという脚本家の筋立てなのでしょうが、一人で押せるはずがない荷車を押して見せる梅子は、仲間の疲労ぶりに気づかない、我を通したがる(「学校のためにいいことをしているのだから、あなたたちも、ぐずぐず言わずに押すか引くかしなさいよ」と“正義”を押し売りしている)いやみな娘にどうしても見えてしまいます。そう見せないためには、せめて「リュックサックに入る以上の物を持って帰りたいとわたしが言い出したばっかりに、みんなには、雨が降る、こんな山道で難渋させてしまって、もうしわけない」ぐらいの言葉が梅子の口から出てもいいところだったはずです。
  ☆梅子たちが荷車を押しながら難儀しているのを見て、今度は、トラックの運転手が善意を示してくれます。「どうせ、東京への、戻りの空トラックだから、荷物を学校まで運んでやろうじゃないか」−−誰もがカネか物をほしがっていた時代ではあったのですが、こんなふうに人がいい運転手もいたかもしれません。ここにも特に問題はありません。
  ☆というわけで、梅子の女子医大にとっても貴重な医薬品などを梅子たちは、当初の思惑を大きく超える量で、なんとか持ち帰りました。−−そこでメデタシ、メデタシとなればいいのですが…。
  ☆さて、さて、荷をトラックに積み替えてもらったあとの、あの荷車はどうなったのでしょう?持ち主とのあいだに、いつどこで、どういうふうに返すという話を梅子たちはまとめていなかったのですよ。荷車はどこかに捨ててきたのでしょうか?それでは梅子たちは、他人の好意に甘えるだけの、無責任な女子医大生でしかないではありませんか。脚本家や演出家、製作者が描きたがっている姿とは違いすぎますよね。
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  この「梅ちゃん先生」は、脚本家や演出家の能力が足りないせいで、登場人物が愚か者に見えてしまうという典型的なドラマです。
  登場人物が愚か者に見えてしまっては、その苦労や喜びが視聴者には伝わりません。「あのときのあなたの判断がおかしかったから、そんな、本来ならしなくれいい苦労をさせられるのだ」と登場人物が視聴者に思われるドラマは失敗作です。それでは登場人物に同情し同感することが視聴者にはできないではありませんか。
  この連続テレビ小説の脚本家と演出者は、梅子をけなげで一本気な、気立てのいい下町娘として描きたがっているようですが、ドラマの筋立ては、梅子をわがままでおっせっかいな、思慮が浅い娘にしか見せていません。
  あの荷車はどうなったのか?
  梅子たちがどこかに放り捨ててきた、としか見えない脚本と演出で満足しているNHK。そんなところにまで視聴者は気づきはしないだろう、とタカをくくっているNHK
  このドラマの脚本家や演出家たちは、いまの日本人の大半がそうである(らしい)ように、自分が言いたいこと(ここでは、医薬品などでを学校になんとか持ち帰ることで仲間5人の友情が深まった、絆が強まった、ということ)だけは言うが、その言っていることが正しい筋でちゃんと裏打ちされているかどうかについてはまったく無関心でいます。
  「梅ちゃん先生」は大きなほころび、「まさかそんな?!」と感じさせられることが多すぎる、実に低質のドラマです。こんなドラマはとても見てはいられません。
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  …女子医大を卒業するためにはどうしてもパスしなければならない追試を受けている最中にその試験場を飛び出してしまう梅子について、次は書くつもりでいます。