第177回 「尖閣ビデオ」流出の意義

  11月8日の「羅府新報」(ロサンジェルスで発行されている日系新聞)に掲載する予定で書いていたコラム(「尖閣ビデオ」の扱い)を、期日前ですが、下にあげることにしました。「尖閣ビデオ」の一部がインターネット上に公開されたため、このコラムがいわゆる“没”になることになったからです。

  「尖閣ビデオ」のこの“流出”をめぐって、民主党政府の情報管理能力のなさを責めるコメントを野党各党が発表しています。“流出”の意義を論じようとする政治家、外交専門家はまだいません。

  “意義”というのはこういうことです。

  この“流出”で政府は、情報管理能力を疑われることになったにしても、一方で、ビデオをどう扱うかについて頭を悩ませずにすむことになりました。そんなことはあり得ないでしょうが、もし、政府が故意に“流出”させたとのだすれば、これは高度の頭脳プレイだと言えるでしょう。中国漁船の悪行の証拠としてこのビデオを中国政府に突きつけよ、との国内の強硬派の要求にあっさりと“肩すかし”を食わせただけではなく、中国政府に“突きつける”という荒業を避けて、しかも、同政府にビデオを見せることができることになったのですから。

  下のコラムで薦めていた「非公式に中国政府に渡す」ことと同じように、表立って相手を刺激しすぎないですむようになったわけです。中国政府は、ビデオが公開されてから15時間以上過ぎた時点のいまでもまだ、公式見解を発表していません。映像が伝えるところを冷静に分析しているはずです。日本にどう反応するべきかを慎重に検討してるはずです。

  いきなり拳を振り上げて相手を強硬論に追いやるだけが外交ではない(日中首脳の廊下“懇談”もちゃんとした外交のうち)、ということを日本と中国の国民はこの“流出”からも学ぶことができます。
  民主党政府の情報管理能力の欠如ぶりや弱腰を攻撃するだけの各野党は、国際政治や外交に関してもっと視野を広げるべきです。国会で政府を攻めれば自党の株が上がる、という程度の頭では世界の動きがいつまでも理解できないままです。

  担当大臣一人を辞めさせたとしても、事実上のこととしてこれだけの成果が上がれば、政府としては“御の字”というところでしょう。一石二鳥の一石は最後には政府自身の頭に落ちてきても、二鳥は手堅く落としたわけですから。いや、「尖閣問題」に関心がある世界各国の政府もビデオを見ることができるわけですから、日本政府は労せずして三鳥を同時にしとめた、と言ってもいいかもしれませんね。

          *

 「尖閣ビデオ」の扱い

 尖閣諸島の日本領海内で中国漁船が海上保安庁の巡視船2隻に衝突してきた事件で、その衝突の瞬間を撮影したビデオを一般にも公開すべきだ、という声が大きくなっているようだ。たとえば、読売新聞はその社説(11月2日)で<中国人船長の行為がいかに悪質で、逮捕に踏み切った日本政府の判断が適切だったか。ビデオ映像は、その明確な裏付になるのではないか。やはり一般への公開が必要だ>と述べている。

 そうだろうか。尖閣諸島(釣魚島)は中国政府にとってはあくまでも中国領なのだ。中国漁船の方から体当たりをしたことが明確になったところで、中国政府が日本政府に、漁船側に非があったことを認め、詫びてくるとは思えない。ビデオが公開され、中国漁船による故意の衝突だったことが広く世界に明らかになれば、行き場を失った中国政府は、逆に、「中国の勇敢な漁船船長が、中国領海内に不法侵入していた日本の巡視船を追い出すために、英雄的な行動に出た」というような愛国キャンペインを展開し始めるかもしれないのだ。ビデオの一般公開を求める者たちは、そんな事態になることを覚悟しているのだろうか。

 <映像を公開すれば、国際社会に日本の正当性をアピールできる>という主張(同社説)も焦点から外れている。国際社会は、中国漁船が衝突してきたという日本の主張には正当性がないのではないか、と疑っているわけではないのだから。

 日本政府がいま国際社会に知ってもらうべきことは、あくまでも「尖閣諸島は日本固有の領土である」ということだろう。だれがだれに衝突してきたのかにこだわっていては、本質を見失ってしまう。中国との話の足場を失ってしまう。

 問題のビデオはまず非公式に中国政府に渡して、中国側がどう反応するかを見るべきではないか。広く公開するかどうかはそのあとの流れの中で決めればいい。

        +++
 
  【中国のネット、衝突映像流出を報道 政府は見守る構え】 2010年11月5日12時14分 朝日新聞

  <【北京=林望】中国のニュースサイトは5日、尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件のビデオ映像が流出したとのニュースを相次いで報じた。一部のサイトでは映像も流れており、船長を英雄視するネット世論が強まっている。中国政府は公式コメントは発表しておらず、当面は事態の推移を見守る構えとみられる>
  <ニュースサイトの報道が広がるにつれ、ネット世論も高まりつつある。香港メディアの中には「漁船が速度を上げて海保巡視船にぶつかった」とする報道もあるが、「漁民は身をていして国に報いた」「自分の領海でぶつかって何が悪い」など、ネット上の掲示板では漁船の船長を英雄視する書き込みが目立つ。ただ、衝突の映像や日本を批判する過激な書き込みは、当局が削除している模様だ>

        +++

  <もし、これが衝突事件直後に一般に公開されていれば、中国メディアが「海保の巡視船が漁船に追突した」などと事実を曲げて報道することはできなかったのではないか。これほど「反日」世論が高まることもなかったろう> 読売新聞社説 (2010年11月6日01時13分 読売新聞)

  <中国外務省の洪磊・副報道局長は同日(5日)夜、映像流出について「ビデオでは日本側の行為の違法性を覆い隠すことはできない」との談話を改めて発表、中国の基本的立場も表明した><中国のネット上では5日、日本の報道の映像が転載され、「船長は英雄」「中国漁船が衝突したのは正当防衛だ」など、再び反日ムードが盛り上がりつつある> (2010年11月5日20時58分 読売新聞)

  <流出により、もはやビデオを非公開にしておく意味はないとして、全面公開を求める声が強まる気配もある><しかし、政府の意思としてビデオを公開することは、意に反する流出とはまったく異なる意味合いを帯びる。短絡的な判断は慎まなければならない><中国で「巡視船が漁船の進路を妨害した」と報じられていることが中国国民の反感を助長している面はあろう。とはいえ中国政府はそもそも領有権を主張する尖閣周辺で日本政府が警察権を行使すること自体を認めていない。映像を公開し、漁船が故意にぶつけてきた証拠をつきつけたとしても、中国政府が態度を変えることはあるまい> (2010年11月6日(土)付 朝日新聞 社説)